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 二辺見(にへんけん)と四句分別(しくふんべつ)


【1.二辺見蔓延の背景】
 二辺見(にへんけん)とは、外道(仏教以外の西洋宗教や哲学等)から発生した、世間一般のモノの見方です。結論から言うと〝間違ったモノの見方〟です。
 仏教では「四句分別(しくふんべつ)を説いて「二辺見」の間違いをしっかり破折(論破)しています。この、間違った「二辺見」の考え方が、実は我々も世間に埋もれているうちにしっかり根付いており、外道生活をしてしまっているのが現状です。実は、日蓮大聖人がこの事につきまして詳しく述べられた御書が比較的少ないのは、大聖人様御在世当時の日本人は仏教思想で生活を営んでいたために、「内外相対(ないげそうたい)」を心得るのに時間がかからなかったらだと言われています。よって、「権実相対(ごんじつそうたい)」から入る御書が比較的多くあるようです。ところが、特に明治維新の「文明開化」や「廃仏毀釈」により日本人は仏教の内道思想を失い、西洋思想・外道義に侵されてゆくことになります。
このあたりから日本人は「内外相対」が理解できなくなり、「文明」「西洋」「神」という存在に振り回されながら、内道思想が崩壊し、「拝外」と「排外」 を繰り返しながら、まずは「国家神道」路線の大東亜戦争で大きくズッコケます。 参照  
 大きな敗戦により弱気になって属国を免れようとした日本は、「アメリカの子分」になってしまい、すっかり西洋思想にハマっていくわけです。GHQを基幹とした現在の日本の法律と、秘密結社の
介入による所謂「日本の壊滅化」路線ですっかり「和の心」「内道」の心を持った日本人は少なくなってしまいました。西洋思想は「文明」「文化」「経済」「科学」といった目に見えるモノしか信じない思想のため、内にある「心」のあり方が理解できないのです。参照


【2.二辺見とは】
 インドのバラモン教がはじまり。現代の世間や外道では一般的なモノの見方。
 ●有(う)…何かが有る・存在するという見方→常見(じょうけん)
 ●無(む)…何かが無い・存在しないという見方→断見(だんけん)
という2つのモノの見方が二辺見です。
(例えば)
 1)茶碗の中に ■有る お茶を→飲んだら □無くなった。
 2)1個のお菓子を食べたら0個になった。
 3)鈴木君がそこにいる。あそこには佐藤君がいる。
 4)鈴木君が笑っている。今度は鈴木君が泣き出した。
 5)左の穴のモグラが右の穴から顔を出した。


 ↑これが二辺見です。一見普通に思えますが、仏教目線でザックリ簡潔表現すると、
1)については、
 仮に土のような因縁で和合した(作られた)、仮に日本の因縁で「茶碗」と名付けられた部分に、 仮に葉などで因縁和合(作られた)仮に日本の因縁で「お茶」と名付けられた因縁の液体が、
 因縁として和合していた(茶を点てた)が、因縁によって(飲んで)、
 仮に宇宙のあらゆる因縁のある場所、中へ離散、あるいは因縁により変化していった。

 となります。 これが「二辺見」では、実際に茶碗というものが存在し、そこにお茶が存在して、飲んだら消えたか消化していったように錯覚する。つまり、有るか無いかの判断基準しかないのです。  しかしこれは単なる一生活レベルの人間目線の短絡的な見方であり、仮に和合した(作った)物体や液体を「茶碗」とか「お茶」と名付けて、それを自己の目線だけで見ているだけの話で、それら自体が「個」として存在しているわけではなく、仮に和合=寄せ集まっていて形に見えるということです。そして、茶碗の原料の土や、お茶の原料の葉も、仮に和合しているだけであり、そこに存在しているわけではないということです。

4)については、
 仮に日本の因縁で鈴木と名付けられた因縁の生命体が、
 仮に命の中の天界ので笑っている。
 仮に命の中の地獄界で泣いている仮の鈴木は、笑っていた鈴木とは全く別物の生命体である。

 つまり、名付けられた「鈴木」というネームには変わりはないが、
実際は過去の鈴木さんと現在の鈴木さんとは別人であり、「鈴木さん」が存在しているわけではないのです。 これは、「イモムシと蝶」、もしくは「鶏と玉子」程の違いがあるのです。 例えば、「アゲハチョウ」と名付けられた生物は元々「イモムシ」だった(その前は卵)。イモムシを「アゲハチョウ」とは呼びません。アゲハチョウの幼虫と呼びますが、決して「蝶」ではありません。又、アゲハチョウを「イモムシ」とも呼びません。
 赤子の頃の鈴木さんと、老体の鈴木さんの、2枚の写真を見た他人は、「これは同一人物」と告げない限り決して同じ人には見ません。蝶の一生は半年、人間は80年という時の流れの差によって、一瞬前の変化に気付かないだけでいるということです。 5)についても同じで 左の穴のモグラと右の穴から顔を出したモグラはすでに別ものなのです。
 「数字」もこの域に入ります。 数字は便宜上の例えであり、本来「数字」自体は存在しません。 ですから、何もかも数字だけで「存在」を表現するとなると、「有」か「無」の判断しかできなくなってしまいます。ちなみに、我々が普段使っている「桁」は「十進法」で、元来人間の手の指の数が10本だから10を一桁にしたのが始まりです。 人間の指の数が違っていたら、桁も違っていたはずです。 十進法(Wikipedia)
¶∵∴小さなリンゴの種∵∴の中に、「リンゴの木や実、葉は存在するのか」
という問いかけに、この二辺見では、存在するかしないかでの説明がつきません。 「存在するなら出してみよ」と問いかけると「今は無い」としか答えない。
 では、「無いなら存在しないのか?」と問いかけると、「水を与えると出てくる」
と答える。では、出てくると言うのなら「有るのか?」と問うと、「有るけど今
は無い」と、矛盾した答えしか出てこないのです。「有る」か「無い」かだけで
判断するとこのような見方しかできないのです。
 ↑ ↑ ↑ 
これはまるで、
A「キミ、お金有る?」
B「あるよ」
A「じゃあ10,000円貸して」
B「実は、今はないけど来週給料入るから有るよ」
A「じゃあ今は無いじゃん!」
B「今は無いけど来週になれば有るよ」

 と話しているようなものです。普通は、「今は持ってないけど来週になれば給料が出るよ」と言いますね。本当は「働いたという因を作り、その因が具わっているため、給料日という機が熟すると会社・口座を縁にお金という報いが発生する。」のが適切でしょうか。 ★火打ち石の中に、「火」は有るのか無いのか。
 火打石なら、「火」自体が石の中に有るわけではなく、因として具わっているため、槌で打つと(縁すると)、「火」を生ずる。
◎心の中に「怒り」や「喜び」は有るのか無いのか・・。
 因として具わっているため、縁してはじめてそのような感情を発する。 我々の生命の「十界」も「仮に具わっている」わけで、「有る」でもなく「無い」わけでもないのです。 我々はどうしてもこの「二辺見」=有るか無いか、自分は存在している、という目線で物事を見てしまうために「天界の中の三界」につかまってしまい、不幸になってしまうのです。




【3.四句分別とは】
 では、仏教の初門である 「四句分別(しくふんべつ)」を簡単に説明します。
 ---------四 句---------
 1)有(う)…(前述)
 2)無(む)…(前述)
 3)非有非無(ひうひむ)…「空」
=有るわけでも無いわけでもない。
 4)亦有亦無(やくうやくむ)…「中」=ある時は仮に有り、ある時は仮に無い。

 仏教ではこの↑「有」の字は全て「仮有(けう)」であり、「有る」のではなく、「具わる」が正しい表現ということです。これは仏教の初門なのですが、我々が信ずる妙法は「一心法界一念三千」と言いまして、とりあえず「存在」という考え方を離れ、「本質はない」という考えを認識する必要があります。
 <現象の集合>
 
 因・縁・果・報
  諸因・諸縁・生起

 とありまして、因・縁・果・報のみではなく、諸因と諸縁により仮に和合して何かを生起している、この繰り返し。個人・物も独立して存在しているのではなく、諸因と諸縁によりとりあえず「仮に有る」と捉えます。 次の瞬間!!諸因と諸縁がまた変化し、離散している「仮の姿」であると。

★映画は「1秒24コマ」の8ミリ映像であるが、感情移入するとその世界の虜になります(「おくりびと」良かったですね)。我々の人生も正にそのようなものです。1コマ前と後ではフィルムが違うように、人生も一瞬前と今は全く別世界な仮の世界なのです。 西洋哲学では 経済問題にぶつかりますと、有るか無いかの執着に捕らわれ、便利・文化を追ってしまいます。「無くて苦しい時」は得る(有)に囚われ、「有って苦しい時」は排除(無くす)」に囚われて、結果、どうあがいても苦しむ事になります。 そして、「生老病死」から逃れようとする=対立する考えに囚われます。 仏教は、「生老病死」「四苦八苦」「六道輪廻」と対立しないで「転換」もしくは「脱する」ことを教えます。
 ユングやフロイトの心理学はせいぜい「七識」を広く浅く、言葉多くして論じているに過ぎないのです。 参照
 世間では「無意識」の世界を論ずるユングの心理学は、フロイトの心理学を包摂しているほど「大きい」とされていますが、「個人的無意識」「集合無意識」にせ よ、ユングの論ずる「無意識」や心理学は「二辺見」の域を出ず、結局は「我」「エゴ」「自己」「セルフ」「夢」「イメージ」自己の元型」「遺伝情報内の大 量の経験データ」「人類の心に普遍的に存在する=先天的な元型の作用力動」といった言葉を多く用い、八識に至らない「有・無」の論で終わり、心の奧の 「業」や「非有非無」を理解したくても理解しようがなかった、ことがわかります。当然です。
 仏教では九識を説きます。
 この埋もれたダイヤモンド「九識(仏性)」も、実は我々の命の奧に〝具(そな)わっている〟が正しい表現です。「有る」と言う論では修行の必要がなく、とうの昔に全世界の人間が成仏しきっているはずです。もちろん「無い」わけでもありません。
「実際に具わっている」事をお姿で明確にお示し下さったのが日蓮大聖人様であり、末法(釈迦滅後2000年以降)に於いて初めて「仏界」たる御本尊様が表されたのです。
 ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ 
 これは、我々「人間界」の中に成道の道があるということで、声聞・縁覚・菩薩といった世界の修行をせずとも成仏が叶うということです。これは、末法の修行である、日蓮大聖人の御図顕された九識本法の法体である「御本尊」を信じて、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え行じるこで叶うのです。
そして、難しい話も悩みも、日蓮正宗の信仰を始めて一つ一つ解決してゆきましょう!





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