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 聖書における神の殺人命令  


 イスラエルのラビン首相暗殺事件も、オウム真理教の一連の殺人事件も、イスラム教原理主義のテロ活動も、すべてこの困難な問題を抱えています。例えば、ラビン首相を殺害した敬虔なユダヤ教徒の青年イガル・アミル氏は、判事の前で、「神の律法によれば、ユダヤ人の土地を敵に渡してしまう者は殺すべきことになっている」と証言しました。
 一般に彼らは「過激主義」の名を与えられていますが、問題の重大さは、殺人が神の命令となる教えが、「ある奇妙な新興宗教」だけのものではないところにあります。ユダヤ教とキリスト教の聖典である聖書をひもとくと、聖典の教えもまた例外ではないことが明らかにされるのです。
 例えば、神がイスラエルの民に与えたとされるカナン人の土地への侵略に関するモーセの教えと彼の後継者ヨシュアの実践を示す部分は、聖書において神が殺人と略奪を命令するもっとも典型的な例と言えます。
 もし殺人命令でさえ信仰者は神(聖書や教祖)の命令を否定できないとしたら、洗脳(伝道)、金集め(寄付・布施)、政治活動、その他諸々の神の命令を信仰者が否定できるわけがありません。ましてや、宣教命令が、困った人々を助けるボランティア活動のような、一見誰も文句を言えない善意活動を通じてなされることになれば、その命令を疑ってみる心さえ浮かばないここに間違った宗教の結果・行く末の結果を見るのです。世界の不幸な惨状は宗教そのものに誤りがあるから起きるのであり、正邪を判断する必要があるのです。



 【1】聖書による〝神の殺人命令〟   〜神が殺人を命じる時〜
【申命記7章1~2節】
「あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを導き入れ、多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、すなわちあなたよりも数多く、また力のある七つの民を、あなたの前から追い払われる時、すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられる時は、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。」

【申命記20章10~17節】
「ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。だだし、女、子供、家畜、および町にあるものすべてあなたのぶんどり品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵のぶんどり品を自由に用いることができる。このようになしうるのは、遠くはなれた町々に対してであって、次に挙げる国々に属する町々に対してではない。あなたの神、主が嗣業として与えられる諸国民の民に属する町々で息のある者は、一人も生かしておいてはならない。ヘト人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人は、あなたの神、主が命じられたように必ず滅ぼし尽くさねばならない。」

【ヨシュア記6章16~21節】
「七度目に、祭司が角笛を吹き鳴らすと、ヨシュアは民に命じた。『ときの声をあげよ。主はあなたたちにこの町をあたえられた。町とそのなかにあるものはことごとく滅ぼしつくして主にささげよ。(中略)金、銀、銅器、鉄器はすべて主に捧げる聖なるものであるから、主の宝物蔵に収めよ。角笛が鳴り渡ると、民はときの声をあげた。民が角笛を聞いて、一斉にときの声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼしつくした』と。」

【ヨシュア記8章1~26節】
「主はヨシュアに言われた。『おそれてはならない。おののいてはならない。全軍隊を引き連れてアイに攻め上りなさい。アイの王も民も周辺の土地もあなたの手に渡す。(中略)その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。』と。」

【ヨシュア記10章22~26節】
「ヨシュアは命じた。『洞穴の入り口を開け、あの五人の王たちを洞穴からわたしたちの前に引き出せ。』彼らはそのとおりにし、エルサレム、ヘブロン、ヤルムト、ラキシュ、エグロンの五人の王を洞穴から引き出した。五人の王がヨシュアの前に引き出されると、ヨシュアはイスラエルのすべての人々を呼び寄せ、彼らと共に戦った兵士の指揮官たちに、『ここに来て彼らの首を踏みつけよ』と命じた。彼らは来て、王たちの首を踏みつけた。ヨシュアは言った。『恐れてはならない。おののいてはならない。強く雄々しくあれ。あなたたちが戦う敵に対しては主はこのようになさるのである。』ヨシュアはその後、彼らを打ち殺し、五本の木にかけ、夕方までさらしておいた」

【ヨシュア記10章29節~11章15節】
「ヨシュアは全イスラエルを率いてマケダからリブナへ向かい、これを攻撃した。主がこの町も王もイスラエルの手に渡されたので、剣を持って町を撃ち、その住民を一人も残さなかった。(中略)主がラキシュをイスラエルの手に渡されたので、二日目には占領し、剣を持って町の住民を全て撃ち、リブナと全く同じようにした。(中略)ヨシュアは全イスラエルを率いてラキシュから更にエグロンへ向かい、陣を敷いてこれと戦い、その日のうちに占領し、剣を持って町を撃ち、全住民をその日のうちに滅ぼし尽くし、ラキシュと同じようにした。(中略)ヨシュアはさらに、全イスラエルを率いてエグロンからヘブロンへ上り、これと戦って、占領し、剣をもって王と町全体を撃ち、全住民を一人も残さず、エグロンと同じようにした。かれはその町とその全住民を滅ぼし尽くした。(中略)ヨシュアは、山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服し、その王たちを一人も残さず、息のある者をことごとく滅ぼし尽くした。イスラエルの神、主の命じられたとおりであった。(中略)ヨシュアがただの一回の出撃でこれらの地域を占領し、すべての王を捕えることが出来たのは、イスラエルの神、主がイスラエルのために戦われたからである。(中略)これらの町々のぶんどり品と家畜はことごとく、イスラエルの人々が自分たちのために奪い取った。彼らはしかし、人間をことごとく剣にかけて撃って滅ぼし去り、息のある者は一人も残さなかった。主がそのしもべモーセに命じられたとおり、モーセはヨシュアに命じ、ヨシュアはそのとおりにした。主がモーセに命じられたことで行わなかったことは何一つなかった。」

 ↑このように、神はモーセとヨシュアに殺人と略奪を命令し、モーセとヨシュアがその命令に従順にしたがって、殺人と略奪を行ったことが誇らしげに記録されています。これらの例は、キリスト教とユダヤ教の聖典であり、また「神の言葉」として現在も多くの信者に崇められている、永遠のベストセラー「聖書の神の殺人命令」のほんの一部にすぎません。
 このような聖書における神の殺人命令は、現代のクリスチャンに少なからぬ困惑をもたらします。そこで、あるクリスチャンはつぎのような正当化を試みます。
「モーゼの時代には、戦争をして相手を殺さねばイスラエル人が殺される状況だったのである。 」
 出エジプト記や申命記やヨシュア記や民数記を読めば明らかなように、そもそも、先住民カナンの人々の土地を、「神がわれわれの先祖にに与えると約束してくださった土地」などという手前勝手な理由で侵略したのは聖書の神の命令にしたがった「神の民、イスラエル」だったのであり、自己防衛を強いられたのはイスラエル人に侵略されたカナンの地の人々だったというのが、繰り返し繰り返し語られている聖書の記述だからです。
 それに加えて、次の【2】の記述をみれば、聖書の神の殺人命令が自己防衛などではなかったことは、あまりに明らかです。


 【2】神の殺人命令は自己防衛にあらず   〜神の思し召しで侵略・殺戮〜
【民数記 31章14~18節】
「モーセは、戦いを終えて帰還した軍の指揮官たち、千人隊長、百人隊長に向かって怒り、かれらにこう言った。『女たちを皆、生かしておいたのか。ペオルの事件は、この女たちがバラムにそそのかされ、イスラエルの人々をヤーヴェに背かせて引き起こしたもので、そのためにヤーヴェの共同体に災いが下ったではないか。直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。』と」
 ↑このペオルの事件というのは、モーセに率いられたイスラエル人たちがシティムという所に滞在していたとき、その土地のミディアン人の女性たが、イスラエルの民たちを食事に招いて、その地方の宗教であったバアル神を拝む儀式に参加させたことに端を発しています。イスラエル人がこのようにして他宗教の神を拝んだので、聖書の神ヤーウェは怒り、モーセに対して、「イスラエルの民の長たちをことごとく捕らえ、主の御前で彼らを処刑にし、白日の下にさらしなさい」と命じ、モーセは裁判人に対して、

【民数記 25章】
「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕ったものを殺しなさい」という厳しい粛正を命じのです。この粛正事件で、2万4千人のイスラエル人が処刑されたと記録されていますが、それが、ペオルの事件でした。 【民数記31章1~3節】
 このため、イスラエルの神ヤーヴェは、モーセに次のように命令します。「ミディアン人を襲い、彼らを撃ちなさい。彼らは、おまえたちを巧みに惑わして襲い、ペオルの事件を引き起こしたからだ。」この神の命令に従って、モーセが、「あなたたちの中から、戦いのために人を出して武装させなさい。ミディアン人を襲い、ミディアン人に対してヤーヴェのために報復するのだ」、と命令して起きたのが、この戦争だったのです。
 昔も今と同じように、軍隊というものは女や子供を殺すことには躊躇したのでしょうか、モーセの軍隊は女や子供は殺さないで帰ってきたのです。ところが、そのために、「女たちを皆、生かしておいたのか」とモーセは大変怒ったのです。それで、「男と寝ず、男を知らない女は自分たちの捕虜に、他はすべて、女も子供も殺せ」と再命令したのでした。
 そして、最後に分捕り品が山分けされます。

【民数記31章31~54節】
「モーセと祭司エルアザルは主がモーセに命じられたとおりにした。分捕ったもの、すなわち兵士が略奪したものの残りは、羊六十七万五千匹、牛七万二千頭、ろば六万一千頭、人は、男と寝ず、男を知らない女が全部で三万二千人であった。戦いに出た者の分け前は、その半数であって、羊の数は三十三万七千五百匹、その羊のうち、主にささげる分は六百七十五匹、・・・人は一万六千人、そのうち主にささげる分は三十二人であった。・・・部隊の指揮官である千人隊長、百人隊長がモーセの前に進み出て、言った。『・・・わたしたちは、めいめいで手に入れた腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなど金の飾り物を捧げ物として主にささげ、主の御前に、わたしたち自身のあがないの儀式をしたいのです。』モーセと祭司エルアザルは、彼らから金の飾り物をすべて受け取った。それらはよく細工されたものであった。・・・モーセと祭司エルアザルは、千人隊長と百人隊長から金を受け取り、臨在の幕屋に携えて行って、主の御前に、イスラエルの人々のための記念とした。」
 ↑このように、聖書の戦争や殺戮、侵略は、生存のための自衛の戦争ではなく、外道邪宗教の欲望を、神の思し召し・情熱として正当化した、強欲な略奪戦争以外のなにものでもありません。


 【3】外道(仏教以外)はの神は戦争の根源   〜神の命令なら戦争も正しい〜
 このように、キリスト教の聖典である聖書の神自身が殺人や戦争や略奪を命令するのですから、キリスト教史において、いかに殺人や戦争や侵略が宗教的に容易に正当化されてきたかを知っても、驚くには値しません。十字軍戦争はもとより、ローマ法皇が、当時の強国ポルトガルとスペインに対して世界を二分することを許したことはよく知られている事実です。南米大陸で、東側(ブラジル)がポルトガル言語圏となり、西側(ブラジル以外の国)がスペイン言語圏としておさまっているのは、そのためです。
 また、北米大陸へ移住してきたピューリタンたちは、先住民たるアメリカン・インディアンたちを虐殺して、合衆国を建設してゆく過程のなかで、しばしば自分たちをモーセやヨシュアに率いられてカナンに侵入していったイスラエル人になぞらえて、自分たちをあたらしい神の選民「新イスラエル人」と自称して、新国家建設(先住民文明壊滅)にいそしんだのでした。

【言:ジョン・ウインスロップ、マサチューセッツ・ベイ植民地の初代総督】
「主はわたしたちの神であり、主の民であるわたしたちのなかに臨在されることを喜ばれ、わたしたちの行く手に祝福を与えられるのだから、今まで以上にわたしたちは主の知恵と力と善と真理を見るであろう。わたしたちのうちの十人が、千人もの敵を相手にすることが出来るのを見るとき、また、わたしたちの植民地の成功を見て人々が『主よ、ニューイングランドのようにして下さい』と賛美と栄光を表白するようになるとき、わたしたちはイスラエルの神がわたしたちのなかに臨在されることを見いだすであろう。なぜなら、わたしたちは『丘の上の町』だからだ。全世界の人々の目がわたしたちに注がれていて、もし始められたこの仕事に関してわたしたちの神に不忠実であれば、神はわたしたちから去ってしまわれるのであり、わたしたちの物語は世界中に言葉によって知られるようになるからなのだ。」

【言:ロナルド・レーガン、米国大統領】
「わずか十人で千人の敵(先住民)をやっつけることができるとき、神が自分たちの中に臨済していることがわかるであろう、そこに、「主の知恵と力と善と真理」を見るであろう、というわけです。アメリカ合衆国の国造り(先住民文明壊滅)の始まりである。」

【引用:「原理講論」542頁】
「キリスト教は『愛と平和』の宗教なのではないか、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、という非暴力の宗教なのではないか、『汝の敵を愛せよ』という無条件の愛の宗教なのではないか。確かにそのとおりです。そこにキリスト教の魅力の一つがあるわけです。しかし、まさに、そのことゆえに、宗教殺人の問題の深さがあるのです。つまり、宗教殺人の本質は、たとえそれが、『敵をも愛せ』という愛の宗教であっても、その殺人が神の命令によってなされるときは『正しい殺人』であると見なされる、という事実にあります。
 モーセがエジプト人を殺したという事実は、神の摂理を知らない人は誰でも悪だというであろう。しかし、復帰摂理の立場で見ればそれは善であった。そればかりでなく、イスラエル民族が何の理由もなくカナンの地へ侵入して数多くの異邦人を全滅させたという事実も、神の摂理を知らない立場から見れば悪であるといわざるを得ない。しかし、これもやはり、復帰摂理 『神の救済史観』の立場から見れば善であったのである。カナン民族のなかに、イスラエル民族よりももっと良心的な人がいたとしても、当時の彼等はみな一律にサタンの側であり、イスラエルは一律に天の側であったからである。」

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 このように、キリスト教史・ユダヤ教史・イスラム教史などにおける頻繁な宗教殺人や宗教戦争・侵略の事実は、しばしば、「本来のキリスト教の教えに背いて行われた」などと、とんでもない言い訳がなされますが、キリスト教の聖典である聖書の神自身が殺人や戦争を命令するのですから、それは違うと言うべきでしょう。聖書の教えに背くどころか、むしろ聖書の教えに忠実であったがゆえになされた結果なのです。









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