末 法 の 御 本 仏 ・ 日 蓮 大 聖 人 の ご 生 涯
※若年層でも読みやすいように簡略化してあります【5】境内で説法 | ||||
| 「立宗宣言」の
後
、師匠の道善房や兄弟子たちをはじめ周
りにいた人たちの前で、念仏宗・禅宗の間違った教えを厳しく追及
し、「
西方十万億土という架空の浄土を説き念仏を唱えて死んだ後に往生成仏が出来るなどと人
を惑わす信仰は邪道である。成仏は、この世の中にあるものだ!」と今までの教えを完全に否定をし、幸せは生きている現実に求めるものだと教えました。 そして「 南無妙法蓮華経」の信仰 が、 唯一自分の命を磨き幸せになる道だと説 きましたが、 全 ての人たちは 、 大聖人様の言葉に驚き、怒り、敵対するようになりました。 師匠の道善房も地頭たちの権力を恐れて、ただ押し黙るしかありませんでした。 そして安房の国の地頭・東条景信が烈火のごとく怒り、大聖人様に危害を加えようとしましたが、兄弟子たちのお陰で無事に難を逃れることができました。 自らの身の危険を知りながら、その足で両親の所に行きました。長い遊学からもどったあいさつと「法華経こそ第一の教えだ」と帰依することを勧めました。お父さんもお母さんも立派になった姿をみて喜び、大聖人様を信じ入信をされました。 |
【6】立正安国論 | ||||
| 人びとの苦しみが増すなかで大聖人様は三十九歳のとき、ひとつの結論をだしました。「鎌倉幕府の間違った仏教観で誤った教えを守っている所に三災七難が起こる」と時の執権に「今すぐ日蓮の説く妙法蓮華経に帰依しないかぎり三災七難から免れる方法は無い」と「立正安国論」を以て直訴したのです。 日蓮の言葉を用いずこのままであれば、 「自界叛逆の難」と言って一族の同士討ちが始まる。そして次には「他国侵遍の難」と言って他の国からせめられると言う恐ろしい予言をしたのです。その内容に激怒した他宗の坊主たちは誹謗中傷だと大聖人様を亡き者にしようと計略をたて始めていたのでした。 |
【7】松葉ヶ谷の法難 | ||||
| 妙法蓮華経に改宗することを物凄い気迫で迫っていた大聖人様の存在を恐れ、いよいよ抹殺してしまおうと極楽寺の重時・道隆・良観たちが結託してあつまりました。 多くの兵 が 夜半過ぎに集まり、松葉ヶ谷の草庵 の大聖人様を亡き者にしようと夜襲の決行をしたのです。しかし弟子 たちのすみやかなはからいで、無事に脱出することができました。「立正安国論 」の 国主諌暁をしてからわずか四十二日を後 の 事件でした。 また、 大聖人様の前に白い猿が現れ安全な場所まで案内したと言う話しが残 っていますが、それを 証明する仏典は何も残 っていません。 法華経を持つ者は必ず諸天善神が守るという法門から逸話としての話しが広まったのかも知れません。 |
【8】伊豆法難 | ||||
| 千葉方面に逃れていた大聖人様が鎌倉に戻ってきました。しかし執権長時(極楽寺・重時の子供)は、これ以上世の中を騒がせないようにと大聖人様に突然無実の罪をきせ、 何の取り調べもしないまま大罪人 にし 伊豆の川奈の津という所 に 島流 しにしてしまったのです。そこを 通りかかった舟守弥三郎 という漁師が助 けてくれました。 大聖人様に敵対していた地頭の伊東八郎左衛門 は、病気平癒の祈願 がきっかけで 大聖人様に帰依 し、治ったお礼に、漁師の網にかかった釈迦の仏像を差し上げました。 そして 極楽寺 ・重時は流罪 の翌月に突然の病に倒れ発狂して 亡 くなり、 子供である執権長時も一年後に三十五歳の若さで原因不明のまま発狂 して死 んだのです。 大聖人様を迫害し、法華経の行者を誹謗し続けて来た結果であったのでした。 |