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 末 法 の 御 本 仏 ・ 日 蓮 大 聖 人 の ご 生 涯

  ※若年層でも読みやすいように簡略化してあります 

 【9】 御母(おんはは)蘇生(そせい)


 この (ころ)から一層(いっそう)(おお)くの大地震(だいじしん)()こり大疫病(だいえきびょう)流行(りゅうこう)大勢(おおぜい)(ひち)たちが()くなり、(おや)()くした子供(こども)たちや()(わか)れになった(ひと)たちが(くる)しみと不安(ふあん)のどん(ぞこ)(なか)での生活(せいかつ)()いられていました。大聖人様(だいしょうにんさま)両親(りょうしん) のことを (おも) いだし、『 立宗宣言(りっしゅうせんげん)以来(いらい)十二年振(じゅうにねんぶ) りに 古里(ふるさと)(かえ)りました。
 いまだに 地頭(じとう)景信(かげのぶ)大聖人様(だいしょうにんさま)(いのち)(ねら) っていましたが、そのような (なか)での帰郷(ききょう) は、 (はは)危篤(きとく)() らせがあったからです。
  (ちち)()くなったときは(かえ)れず、そして今度(こんど)(はは)のためにどうしても(かえ)って『病気(びょうき)(なお) る』ための 題目(だいもく)(とな)御秘符(ごひふ)をあたえ、報恩(ほうおん)のために御祈念(ごきねん) をするためです。お (かあ)さんは不思議(ふしぎ)にも臨終(りんじゅう)状態(じょうたい)から()() し、 以後(いご)四年(よねん)(あいだ)寿命(じゅみょう)()ばして生涯(しょうがい)安穏(あんのん)()らしました。

 【10】小松原(こまつばら)法難(ほうなん)

 大聖人様(だいしょうにんさま)一行(いっこう)安房(あわ)(くに)(かえ)ってきたことを()った東条景信(とうじょうかげのぶ)武装(ぶそう)した数百人(すうひゃくにん)兵隊(へいたい)(あつ)めて大聖人様(だいしょうにんさま)一行(いっこう)襲撃(しゅうげき)して()たのです。
 突然(とつぜん)襲撃(しゅうげき)弟子(でし)たちも応戦(おうせん)したのですが、大聖人様(だいしょうにんさま)(みぎ)(ひたい)()られ左腕(ひだりうで)()られました。
 そして弟子(でし)(そう)鏡忍房(きょうにんぼう)()(ころ)され、大聖人様(だいしょうにんさま)は、(こころ)(いた)成仏(じょうぶつ)(ねが)いました。信徒(しんと)工藤吉隆(くどうよしたか)もひん()重傷(じゅうしょう)()けました。その怪我(けが)がもとで、まもなく()くなってしまいました。
  この襲撃(しゅうげき)(うら)には良観(りょうかん)たちの他宗(たしゅう)僧侶(そうりょ)たちの後押(あとお)しと陰謀(いんぼう)があったのでした。そして重時(しげとき)(とき)とおなじように景信(かげのぶ)襲撃(しゅうげき)三日後(みっかご)原因不明(げんいんふめい)発作(はっさ)()こし(くる)しみ()いたあげく()くなっていきました。

  この(とき)をけいきに師匠(ししょう)道善房(どうぜんぼう)法華経(ほけきょう)帰依(きえ)大聖人様(だいしょうにんさま)仏門(ぶつもん)一員(いちいん)となられました。

 【11】良観(りょうかん)雨乞(あまごい)




 このころ、全国的(ぜんこくてき)干魃(かんばつ)(つづ)き、まったく(あめ)()らず野菜(やさい)(こめ) など()べるものが() れなくなっていきました。 当時(とうじ)良観(りょうかん)(いき)(ぼとけ)のように(あが)めていた(ひと)幕府(ばくふ)(ねが)いによって『雨乞(あまごい)いの祈祷(きとう) 』がはじまり、 良観(りょうかん)は『七日(なのか)のうちに(あめ)()らす』と豪語(ごうご)したにもかかわらず、一向(いっこう)(あめ)()らずかえって干魃(かんばつ)(つよ)くなり暴風(ぼうふう)()()れました。
  良観(りょうかん)弟子(でし)大聖人様(だいしょうにんさま)(たず) ねて ()ましたが大聖人様(だいしょうにんさま)は『それならば(ただ)ちに祈祷(きとう)をやめ法華経(ほけきょう)帰依(きえ)せよ』と(いさ)めました。
  良観(りょうかん)はその(はなし)()いて (くや) しがり、 仲間(なかま)僧侶(そうりょ)たちを()やし、また七日(なのか)期限(きげん)をのばして(いの)りましたが結局雨(けっきょくあめ)一滴(いってき)()らず、良観(りょうかん)(なん)(ちから)()いと()けの(かわ)をはがされ徐々(じょじょ)偽善者(ぎぜんしゃ)良観(りょうかん)本性(ほんしょう)民衆(みんしゅう)(なか)()らしめる結果(けっか)()わりました。

 【12】行敏(ぎょうびん)訴状(そじょう)


 良観(りょうかん)雨乞(あまごい)いの失敗(しっぱい)律宗(りっしゅう)だけの屈辱(くつじょく)ではなく、大聖人様(だいしょうにんさま)謗法(ほうぼう)(いさ)めてきた鎌倉中(かまくらじゅう)僧侶(そうりょ)(はじ)でした。
 大恥(おおはじ)をかかされた良観(りょうかん)行敏(ぎょうびん)という僧侶(そうりょ)をつかって、(よっ)つの質問状(しつもんじょう)(おく)()反論(はんろん)ができないようにするつもりでした。
 しかし大聖人様(だいしょうにんさま)は『正邪(せいじゃ)をはっきりしたい』と(こう)()で『口上対決(こうじょうたいけつ)』を(もと)められ、今度(このたび)計略(けいりゃく)もなんなくかわされて失敗(しっぱい)()わりました。
  そして大聖人様(だいしょうにんさま)(なん)にも(おそ)れることの()姿(すがた)に、かえって(おお)くの権力者(けんりょくしゃ)たちが(おそ)れおののき最後(さいご)手段(しゅだん)(えら)んで()きました。
















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