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 【天理教】 〝人間の元はドジョウ?幼稚思想と苦しい楽観主義〟 


 【1.語呂合わせの教団名からはじまった】
 天理教は、もともと(てん)(りん)(きょう) であった。そもそも天輪とは、転輪聖王のことであって、武力を用いず正法によって全世界を統治する理想の王と仏教一般に言われ、化城喩品にも出てくる。また、念仏信仰では、阿弥陀仏が理想の王たる転輪王である等とも説いている。
 教祖みきが、念仏信仰に深く関わってきた経緯をみれば、転輪王との結びつきは十分考えられることだが、天理と言う名称の発想等は、もともとみきの頭にあろうはずもない。

 教祖のお筆先はもちろん仮名書きでだが、しかし、その「てんりん」を、教団自身「転輪」「天輪」「天倫」等と漢字を充てて出版した書物が今に残っていることからも、初めは転輪だったことがよく判る。
 明治7年から19年までの間に、みきは官憲(かんけん)に18回も拘留(こうりゅう) されている。そのたびに、とりまきの幹部は危険と不安に (おび) えていた。体制批判を続けてきたみきが明治20年に死亡し、お陰で当局と話し合いが出来るようになった教団幹部は大いに喜んだ。そして、教団の独立認可が欲しかった彼等は、ついに、明治政府の意向に従って、神道色の濃い教団に変身さた。

 明治5年、政府は各宗派宛に三条教憲なるものを発布していた。
 その三条教憲とは

  「第一条、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事」
  「第二条、天理人道ヲ明ニスベキ事」
  「第三条、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキ事」

 の内容である。この中で、第二条の「天理」「転輪」と語呂が合い、しかも当局の意に添うものであるため、これなら独立認可をもらえるだろうと思った教団が明治21年から使い始めた名称、これが「天理」だったというわけである。
 教祖・中山みきの神がかった元の神、即ち親神が「転輪王」ならば、その意に背く今の天理教は虚偽の教団と喝破されるはずである。一方、今の天理教が正しいというのであれば、この教団は、教祖中山みきとは何ら関係のない宗団、というべきである。

 

【2.人間のもとはドショウ?】  
 天理教の親神天理王命 ( てんりおうのみこと ) とは、キリスト教における神とよく似ており、この世の万物万人を意のままに創造した創造主という概念になっている。
 初めは( かみ ) と呼んでいたが、途中から月日 ( つきひ ) 」と変わり、後には「おや」と呼ぶようになっている。こうした変化も不自然だが、特に一般世間の神と区別するために、「元の神」「真実の神」「元こしらえた神」等と、親神を強調しているのも天理教ならではである。

 神と人とを 隔絶 ( かくぜつ ) する神人隔別のとらえ方であり、特に面白いのは、作られるその人間も、もとはドジョウであった等と、神話「泥海古記」の中に説明している。その神話では、十全の神(手抜かりのない完全な神)として次のような名前が挙げられる。
 クニトコタチノミコト、ヲモタリノミコト、クニサヅチノミコト等ですが、よく見ると「古事記」「日本書紀」に出てくる神名そのままである。ところがその中で「クモヨミノミコトとタイショク天ノミコトは記紀に出てこないから記紀の真似ではない」と天理教では反論しているが、いずれにしても、これら十柱の神を統理し総称する神のことを天理王命だと説いている。

 そうなると天理教のいう神とは〝日本人特有の 氏神 ( うじがみ ) 信仰と 怨霊 ( おんりょう ) 信仰に加えて、 ( ) ( ) ( よろず ) の神等が底辺にあり、そこへ念仏信仰の仏教が加わり、終には伊勢信仰までもが加えられ仕上がったもの〟とみるべきである。因縁話と陽気暮らしの理がよくそれを物語っている。
 この天理教の思想は、仏教で説くところの「仏の 垂迹 ( すいじゃく ) あるいは仏道修行者を護るところの「諸天善神の神観念」とは全く意が異なる。また「神は親として人を産むが、子供として生まれた人間は、決して親たる神にはなれない」と言っているが、仏法では、( しつ ) ( ) ( ぶっ ) ( しょう ) ( しつ ) ( かい ) ( じょう ) ( ぶつ ) と説き、凡夫も仏も本来は同質のもの、との理もある。正法の信心と修行によって境智冥合するとき、九仏は一体、凡聖は一如なりとの理がそれである。


【3.軽薄な人生観】
 教祖・中山みきの教えは〝陽気暮らし〟が大前提になっている。歌を作り、歌に合わせて皆を踊らせることもこの陽気暮らしの表現化であり、楽天主義を異常なまでに誇張させたともいえる。
 仏教では、仏が初めて見て教えた人間の世界のは「苦」であったが、その苦を解決してこそ人としての本当の幸せがあるとする。しかし天理教の陽気暮らしは人生の根本問題も解決せず、皮相的な人生観のもとに生活を謳歌しようとする、仏教とは相反する思想である。
 天理教には「貧に落ちきれ」という人生教訓があり〝人の幸せは物・金ではない、心の安住が一番大事な事だ〟〝人の心は自分が物・金をもっていたのでは理解できない、他人に与え、貧乏になりきってこそ本物の人間になれる〟と教えている。

 世間の人は、これを
「屋敷を払うて 田売りたまえ 天理王命」

等と揶揄した事がある。

  遊蕩三昧 ( ゆうとうざんまい ) の亭主へのあてつけと、心身共に疲れた家業からの解放が教祖・みきのクーデターの第一目的と判れば、この発想もうなずる。
 しかし、陽気暮らしにうつつをぬかし、全国万民が貧に落ちきる運動を続けていて、国の 安寧 ( あんねい ) は計られるわけもなく、個々の将来も安泰も無理である。それらを考える時、厳正な宗教教義でないことが十分判る。

 また、天理教には一貫した三世の思想はなく現世だけが中心である。過去は、仏法の業を採り入れた因縁話に終始し、未来は現世に出直すための仮の世として、人の死を「出直し」と呼んでいる。教祖・みきが関わった浄土思想、即ち未来での楽しみでは遅すぎるという抵抗心が、このような徹底した 現世主義を作り上げたのであろう。
 「心と肉体は別の物」と説くのも天理教の特徴。「肉体は親神から借りたもので、心だけが自分独自のもの」としている。自分の心は、本来は清く正しいはずなのだが、いつの間にか ( ほこり ) が つき、汚く、けがわらしくなってしまったとし、その汚れた心は八つある=おしい(惜)・ほしい(欲)・にくい(憎)・かわい(可愛い)・うら み(怨)・はらだち(怒)・よく(貧)・こうまん(慢)の八つです。この八つの埃は、天理王命に祈ることによって、ほうきで塵を払うが如く払ってもらえる と教えている。

 正しい仏教では、日蓮大聖人曰く

「人は本来仏性をもった 本有 ( ほんぬ ) ( そん ) ( ぎょう ) であり、色心も不二にして一体なもの、またその心も一念三千十界互具といわれ、煩悩・業・苦の三道は法身・般若・解脱の三徳と転ずることができる」(取意)と説かれている。
 経文の( ) ( だん ) ( ぼん ) ( のう ) ( ) ( ) ( ) ( よく )
を加えて考える時、天理教の教えの低さがよく判る。

 天理教の「八つの埃」とは人の五欲を指しているようだが、これらを払っただけで五欲等は取れるはずもない。ところが天理教では、この埃が全ての不幸を招くともいい、中でも病気の根元はすべてこの埃だと断定するところから、病人を一番の布教対象にしている。今日ある天理病院はこのような教えに深く関係している。

 また、天理教では「そもそも病気とは、親神が人々の悪しき心を反省させるために人間に与えた試練だ」といい、これを「身上(みじょう)」と呼んでいる。更には、「家庭の不和や事業の失敗等も、その人の反省を促すところの神意」であるとし、これを「事情(じじょう)」と呼んで、すべて自分の「心得違い」か らくる不幸だと教えている。
 しかし、心と直接、関係のない病気もあれば、また、戦争やまきぞえ事故、あるいは天災等による不幸も世の中には沢山ありが、これをすべて個人の「悪しき心のため」と片づけられ、しかも、その中で「陽気暮らしをせよ」とは、これまた大きな矛盾である。

 


【創 立】
 1838(天保9)年10月26日
【創始者】中山みき
【代表者】中山善衛
【信仰の対象】
 
天理王命
【教 典】
三原典(御筆先・御神楽歌・御指図)  
【本 部】
 
奈良県天理市三島町1-1

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 1838年(天保9年)10月26日、中山みきが神がかったこの日を「立教の日」と定め、天理教では毎年その日に大祭を行なっている。
 大和国山辺郡 三昧田 ( さんまいでん ) 村に生まれたみきは、隣の庄屋敷村の中山家へ13才の時に嫁ぎ、そこが今の天理教本部(天理市三島町)の中心である。
 小さいときからみきは信仰心が厚く、近くの念仏寺の参詣を条件に嫁入りしたといわれる。嫁ぎ先の中山家は裕福な家だったが、夫善兵衛が非常に身持ちが悪く夫婦仲が悪くなり、家運も落ちていった。
 その中で17年間に一男五女の子をもうけ、そのうち2人を亡くしている。
 みき41才の時、一人息子の長男が足を病み、夫が眼を病み、自分は出産の肥立ちが悪いので、これを祈祷によって治そうと修験者・市兵衛を呼んだ。修験者の祈祷には、加持台という神が降りる中継人が必要だったが、それを努めるべき 巫女 ( みこ ) が不在で、みきがその代理を行なったことによって神がかり、天理教発生のきっかけになったのである。
  天理王命 ( てんりおうのみこと ) を崇拝対象とし、これを 親神 ( おやがみ ) といい、創始者中山みきを、教祖〈おやさま〉と呼んでいる。そして、教祖以後の代表者を 真柱 ( しんばしら ) と言う。
 教典としては、みきの著作になる( ) 筆先 ( ふでさき ) 」「 ( ) ( ) ( ぐら ) ( うた ) があり、また、教えを後人がまとめたところの「 御指図 ( おさしず ) 」を加えて、天理教の三原典としている。
 祈祷の加持台となった中山みきは、三日三晩神がかり状態が続き、その後、夫に対し「われは天の将軍、大神宮である。この屋敷親子もろとも貰いうけたい。聞き入れるならば、三千世界を助ける。もし不承知ならば、この家もろとも、もともこもないようにしてしまう、それでもいいか(取意)」と言い、夫は種々押し問答をしたが、みきの強引さにとうとう「差し上げ申す」と返事をさせられてしまったという内容が、教団の教祖伝に載っている。
 これは本来、神の声と称して中山みきが、夫やいきづまった家庭に対し行ったクーデターである。
 跡取り息子の難病、家業を省みないグウタラ亭主との不和、子供の死、不安定な社会情勢からくる家業不振の悪条件が、内気なみきに究極の選択を迫ったものである。そしてみきは「神々の総元締、伊勢大神宮の力を借り、地上の支配者徳川将軍に対して、それよりも威力ある天の将軍を引き合いに出し、何ものにも負けない、この世で一番強いみきに生まれ変わった」という。
 みきは、神がかりという儀式を経て、日常の不満と日々の苦悩から一挙に解放されたというが、これは単なるみき個人の自己満足であって、当初から世直しのメシア(救世主)などではなかったことを物語っている。

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