1. |
宗教の必要性を認めない |
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宗教を否定し、信仰の必要性を認めないという人の中には、感覚的に信仰を嫌う人もあれば、今までまったく無関心に生きてきたことによって、その必要性に気づかない人もあることでしょう。
しかし、ほとんどの人々は自分なりの信念を持って、日々努力を重ねて自分の一生を生きていけばよいと思っているようです。
たしかに自分の信念と、毎日の努力によって一家をささえ、子供を育て、それなりの財産を築き、社会的な地位
を得るということは、尊い一生の仕事であり、これとても、並たいていの努力でできるものではありません。
真実の宗教は、人間の生命を説き明かし、人生に指針を与えるもっとも勝れた教えですから、これを信ずることは仏の正しい教えによって、心の中に秘められ
た願いを成就し、私たちの持つ信念を、より崇高な信念へと高め、人間性をより豊かに、より充実したものに育むことになるのです。
たとえば、山の中の小さな谷川をわたるのには、航海術を学ぶ必要はないでしょう。けれども、太平洋などの大海原を渡るには、正しい航路を知り、進路を定め、航海するための知識や技術が、どうしても必要なのです。
私たちの人生にとっても、一生という長い航海には、仏の正しい教えによって航路を正し、自分を見きわめ、真実の幸せな人生という目標に到達するための知識や訓練ともいうべき、正しい信仰と修行が必要なのです。
真実の宗教を持たず、正しい信仰を知らない人は、あたかも航海の知識もなく、進路を見定める羅針盤も持たずに大海原に乗り出した船のように、人生をさまよわなければなりません。
釈尊は涅槃経というお経の中で、信仰のない人のことを、
「主(しゅ)無く、親(おや)無く、救(く)無く、護(ご)無く、趣(しゅ)無く、貧窮飢困(びんぐきこん)ならん」
と説いています。
すなわち、正しい宗教を持たない人は、仏という人生における根本の師を知らず、正法の財宝(功徳)に恵まれない、心の貧しい人だというのです。
さらに長い一生の間には、経済苦や家庭不和や社会不安の影響などによって、深刻な悩みや苦しみが押し寄せてくる時もありましょう。少なくとも病苦・老苦・死苦などは、誰もが必ず直面
しなければならないことなのです。
実際に自分がこうした苦悩に遭遇した時のことを想像してみて下さい。はたして本当に自分の信念と努力で、このように悩みや苦しみを乗り越えることができ
るのでしょうか。少なくとも自分一人の力で、その苦しみのどん底からはい上がり、我が身の不幸を真実の幸せな人生へと転換させることは容易なことではあり
ません。
まして一切の苦悩に打ち勝って、安穏な、しかも行きづまりのない自在の境涯を開拓して生きるなどということは、できるものではありません。
ここに、正しい信仰によっていかなる障魔にも負けない不屈の闘志と、仕事や家庭など人生におけるすべての苦難に打ち勝つ力を養うために、宗教の必要性があるのです。
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2. |
現実に神や仏がいるとは思わない |
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はじめに、神についていいますと、キリスト教やイスラム教で立てる天地創造の神ゴッドやアラーは、予言者と称されるキリストやマホメットが経典に説示しただけのことで、現実にこの地上に姿を現したことはありません。
天理教の天理王命(てんりおうのみこと)や金光教の天地金乃神(てんちかねのかみ)なども、教祖がある日思いついたように言い出したもので、この世に現れたことはありません。
また神社の中には、天満宮や明治神宮などのように菅原道真とか明治天皇などの歴史上の人物を祭っているところもありますが、これらは偉人を敬慕する感情
や時の政治的配慮などによって、人間を神にまで祭りあげてしまっただけのことで、神本来の働きをもっているわけではないのです。
本来、神とは原始的時代の自然崇拝の産物であり、宇宙に存在するさまざまな自然の作用には、それぞれ神秘的な生命すなわち神が宿っているという思想に端を発しています。
したがって真実の神とは、ひとつの人格や個性を指すものではありませんし、神社などに祭られて礼拝の対象となるものでもありません。あくまでもすべての生き物を守り育むことに神の意義があるのです。
この神の力が強ければ人々は平和で豊かに暮らせるわけですが、仏法においては、神の作用は正しい法の功徳を原動力とし、これを法味といい、諸天諸神が正
法を味わうとき、仏の威光と法の力を得て善神として人間を守り、社会を護る力を発揮すると説いています。
次に仏についていいますと、仏典に説かれるたくさんの仏や菩薩たちも、ほとんどは歴史的に地上に出現したことはありません。身近なところでは、念仏宗の阿弥陀如来や真言宗の大日如来なども実在したことのない仏です。
ではなぜ架空ともいえる仏や菩薩が経典に説かれたのかというと、インドに出現した釈尊は法界の真理と生命の根源を説き明かすために生命に備わる働きや仏の徳を具象的・擬人的に仏・菩薩の名を付けて表現されたのです。
たとえば智慧を文殊菩薩、慈悲を弥勒菩薩、病を防ぎ、癒やす働きを薬師如来・薬王菩薩、美しい声を妙音菩薩というように、それぞれに名を付けられました。
これらの仏・菩薩は教主である釈尊の力用を示すために説かれたわけですが、釈尊は厳然とインドに誕生され、宇宙の真理を悟り、人々に多くの教えを遺されました。釈尊の出現と経典に説かれる深義に疑いをもつ人はいないでしょう。
この釈尊が究極の教えとして説かれた法華経の中に、末法に出現する本仏を予証されました。その予証とは、法華経を行ずる故に刀や杖あるいは瓦石で迫害さ
れること、悪口罵詈されること、しばしば所払いの難にあうこと、迫害者の刀が折れて斬ることができないなどのことですが、この予言どおりに、うち続く大難
の中で民衆救済のために究極の本法たる文底の法華経を説き、未来永劫の人々のために大御本尊を顕わされた御本仏こそ日蓮大聖人です。
日蓮大聖人はひとりの人間としての人格の上に本仏の境界を現実に示されてのです。
もしあなたが、仏は人間の姿をしたものではなく、金ピカの仏像や大仏そのものと考えて「そのような仏など実在しない」というならば、それはあまりにも幼稚な考えであり、ためにする言い掛かりというべきです。
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3. |
宗教は精神修養にすぎないのではないか |
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精神修養とは、精神を錬磨し品性を養い人格を高めることですが、一般には心を静め精神を集中することをいうようです。
芸術やスポーツなどを通して精神を磨き、人格を高めるならば、それは立派な精神修養です。
数多い宗教のなかには、精神修養の美名を看板にして布教するものがあります。その代表的なものとして禅宗があげられます。
煩雑な毎日に明け暮れている現代人にとって、心を静めて精神を集中する機会が少ないためか、管理職者や運動選手の精神統一の場として、あるいは社員教育の場として、座禅が取り入れられ、ブームになっているようです。
では宗教の目的は精神修養にあるのかという点ですが、仏教では、精神を統一し心を定めて動じないことを禅定(ぜんじょう)とか三昧(さんまい)といい、
仏道修行のための初歩的な心構えとして教えており、これが仏教の目的でないことはいうまでもありません。
また人格品位の修養についていえば、仏教の中の小乗教では、悪心悪業の原因は煩悩にあり、煩悩を断滅して身も心も正された聖者になることがもっとも大切であると説き、戒律を守り智慧を磨くことを教えました。これを二乗(声聞・縁覚)の教えといいます。
しかし大乗教では、自分だけが聖者になっても他を救おうとしないのは狭小な考えであり、思考や感情に誤りのない聖者でも、それだけでは真実の悟りではないと、小乗教を排斥し、自他ともに成仏を目指す菩薩の道を示しました。
そして究極の法華経では、さらに進めて、仏が法を説く目的は、二乗や菩薩になることではなく、一仏乗といって衆生を仏の境界に導くことに尽きるのであると教えられたのです。これを開三顕一(かいさんけんいち・三乗を開いて一仏乗を顕す)といいます。
もちろん宗教で説く二乗や菩薩の道が直ちに現今の精神修養とまったく同じということではありませんが、少なくとも二乗や菩薩の教えの一部分に人格と品性の向上を図る精神修養の意義が含まれているということができましょう。
釈尊は、
「如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう」(方便品第二)
と説かれ、日蓮大聖人も、
「智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき」(十八円満抄)
と仰せられるように、仏法の目的は精神修養などに止まらず、成仏すなわち三世にわたる絶対的な幸福境界の確立にあるのです。
したがって、禅宗などで精神修養を売りものにしていることは、教義的に誤っているだけでなく、本来仏教の目的からも大きな逸脱を犯す結果になっているのです。
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4. |
「さわらぬ神にたたりなし」で、宗教に近づかない方がよいと思うが |
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「さわらぬ神にたたりなし」」とか「参らぬ仏に罰は当たらぬ」ということわざは、信仰とかかわりを持たなければ、利益も罰も受けることはないとの意味ですが、一般
には広くなにごとも近づかなければ無難であるという意味に使われています。
たしかに間違った宗教には近づかない方が無難ですが、こと正しい仏法に対して、このような考えを持つことは誤りです。
釈尊は、 「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ我が子なり。」
(譬喩品第三)
と説かれ、世の中のすべては仏の所有するところであり、人々はすべて仏の子供であるといわれています。いいかえると、仏法とは文字通
り仏が悟られた真理の法則ということであり、私たちは誰ひとりとしてこの真理の法則から逃れることはできません。
仏教では宇宙全体を指して法界といいますが、日蓮大聖人は、
「法界一法として漏るゝ事無き」(御義口伝)
と仰せられ、仏が開悟した法は宇宙法界に漏れなくゆきわたっていると教えられています。
ですから信仰を持たなければ罰も当たらないというのは、警察署に近づかなければ罰せられることもないということと同じで幼稚な理屈であることがわかるでしょう。
もし正しい仏法に近づかなければ、真実の幸福をもたらす教えを知ることができないわけですから、それこそ日々の生活が、仏に背き、法を破る悪業の積み重ねとなっていくのです。
ましてや仏の慈悲は人を救い善導するところにあり、たたりなどあるわけがありませんし、罰といっても、仏が罰を与えるのではなく、我が子を導く手段として、罰に引き込まれる原因を教え叱ることと同じで、それも親の愛情の一分であることを知らなければなりません。
その意味から考えても、罰が当たるという間違った概念から仏法に近づかないというのは、親や教師の指摘がうるさいからといってこそこそ逃げ回っている子供と同じことで、およそ健全な人間に育つはずはないのです。
いかに自分では信仰と無縁のつもりでいても、この世に生きている人はすべて、正しい教えによらなければ真の幸福を得られない存在であり、又仏の掌の上で
生きていることに違いはないのですから、自らの人生をより爽快なものとし、充実したものとするため一日も早く正しい仏法に帰依することが大切なのです。
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5. |
現実生活の幸福条件はお金が第一ではないか |
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私たちが日常生活を営むうえで、衣・食・住の全般にわたってお金がたいへん重要で便利な役割を果
たしています。物品の価値がお金に換算できることはもちろん、人間や機械の労力・能力そして生命までが金銭で贖われています。
そのためにお金をすべてに先行して価値あるもののように思い、幸福条件の第一に挙げる考えの人は少なくありません。
しかしどんなに貴重なお金であっても、所詮は人間社会によって産み出された“物”であり、生活上の手段のひとつにすぎないのです。言い換えれば、生きている人間そのものが主体者で、金銭は人間によって考え出された流通
上の約束ごとのひとつであるということです。
これを間違えて、人間がお金に使われたり振り回されるところにとんでもない悲劇が生ずるのです。たとえば、お金をけちけちとためて満足な食事もせず、結局ためたお金を使うことなく餓死した老人がいました。
また遺産をめぐる親族間の争いが高じて殺人事件に発展した例、サラ金苦においつめられて殺人や強盗に走る例もあれば、一家心中の例などお金をめぐる悲惨な事件は毎日のように報道されています。
これはお金というものが、私たちの生活に大きな比重を占めている証しでもありますし、生死にかかわるほど大きな影響力をもっている証左でもあります。
と同時にこれらの事例から、同じお金であってもそれを使う人間によって幸にも不幸にもなることがわかります。
つまり、お金は生活する上に必要なものですが、またお金によって不幸を招くこともあるということなのです。
ここに主体者である人間を確立しなければ、真実にお金も財産も正しく生かされないという道理を知るべきなのです。
日蓮大聖人は、
「蔵(くら)の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり」(崇峻天皇御書)
と仰せられています。
私たちにとって大切な財宝はいくつかありますが、お金などの蔵の財よりも、健康な身体が大切であり、それよりも大切な宝が人間の根本ともなる心の財なのです。
お金は、現代の幸福になる条件のひとつであることに違いはありませんが、それが幸福のすべてではありません。根本にある心の財を正しい信仰によって磨
き、福徳に満ちみちた人間になったとき、はじめて蔵の財(お金)にも恵まれ、それを正しく自在に使いこなしていけるのです。
せっかくためたお金や財産を不幸や悲劇の種にするか、幸福の種にするかは、その人の心と福徳によって決まります。
物心両面にわたる幸福な人生を築くためにも、まず正しい仏法に帰依し、信仰に励むことから出発しなければならないことを知るべきでしょう。
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6. |
学歴や社会的地位こそ幸福の要件ではないか |
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レッテル社会といわれる現代では、より安定した生活を送るためには有名校を卒業して大企業や官公庁に入り、重要ポストにつくことが幸福の要件と考えている人があります。
これについて二点から考えてみましょう。
第一の点は、はたして社会的な地位につくことが幸福の条件なのか、ということです。
最近、40代、50代の、いわば社会的に重要な地位にある年代のエリートが、仕事上の行きづまりや人間関係の悩みによってノイローゼになったり、自殺に走るケースが頻繁に起こっています。
現代の熾烈な競争社会の中で責任のある地位につくことは、それだけ大きな負担となり、身心ともに苦労も多くなることは当然です。
ではなぜ人々は苦労の多い地位を望むのでしょうか。その理由は、ひとつには人に負けたくない、人の上に立ちたいという本能的な願望であり、もうひとつには地位
が向上すれば経済的に豊かになる、周囲から敬われることなどが挙げられると思います。
もし願いどおりの地位についたとしても、それに適合しない性格であったり、負担に堪える人間的な能力がなければ、その人は苦痛の毎日を送ることになるのです。
第二の点は、学歴至上主義がもたらす弊害と不幸がいかに大きいか、ということです。
たしかに一流大学を卒業した人は、それだけ幼いころから勉学に励んできた努力によって、能力的に優れています。深い学識と幅広い教養による英知はいずこの社会や職場にあっても、知的資源、人的資材として重要視されることは当然でしょう。
しかし誰もが一流校には入れるわけではなく、ごく一にぎりの人だけが許される狭き門を目指して、過酷な受験戦争がくり広げられ、子供は友情を育むどころか、同級生を敵視する状態に追いやられています。
毎年受験シーズンになると受験に失敗して自殺するという悲惨な事件が相つぎますが、幼いころから親や先生の「有名校に入る人は優秀、入れない人は敗北者」という言葉を聞いて育ったならば、受験の失敗がそのまま人生の破滅になると考えるのは当然です。
まさに誤った学歴偏重の風潮が生む不幸の一面であり、その風潮の中で育った子供は、またさらに学歴偏重の人生観を増幅していくのです。
このような教育制度や教育行政のゆがみは教育の部分だけをとり上げて改革しようとしても根本的な解決にはなりません。
なぜならば、教育問題は時代や社会機構全体と深く関わっており、さらには人生観・価値観ともつながっている事柄だからです。
釈尊は現代を予言して、末法は五濁の時代であると喝破されています。五濁とは時代が濁り、社会が乱れ、人間の生命も思想も狂うことを指しており、その原因は誤った宗教にあると説いています。
したがって健全な人生観や社会思想は、ひとりひとりが正しい宗教に帰依し、しかも正法が社会に広く深く定着したときに醸成されるのであり、真実の幸福は表面
的な学歴や肩書きによってもたらされるのではなく、真実の仏法を信仰し修行することによってもたらされるのです。
以上の二点だけを取り上げてみても、学歴や社会的地位がそのまま個人の幸福の絶対的条件になるわけでもなく、社会の福祉につながるわけでもないことがわかるでしょう。
真実の幸福とは、いかなる負担や困難をも悠々と解決して乗り越えていくところにあります。
個々の人間に生命力を与え、勇気と希望と智慧をもたらす道は、真実にして最勝の仏法を信仰し修行することに尽きるのです。
身につけた学識と教養、そして大きな責任をもつ社会的な地位、それらをより充実したものとし、より価値あるものとするために、正しい信仰が絶対に必要なことを知るべきです。
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7. |
いまが楽しければそれでよいではないか |
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「いまが楽しければ」という言葉のひびきには、まったく将来のことを考えず、苦しみを避けて、いまの楽しみばかりを追い求めるというニュアンスが感じられます。
それは、おそらく、若いときの楽しみは若い時にしか味わえないという考えから、オートバイの爆音や、ロックの喧噪の中に我を忘れ、酒や歌、そしてダンスに陶酔のひとときを過ごす若者たちに共通
した考えかたであると思います。
その反面、いまの楽しみより将来の楽しみを目指して、つらさに耐え、少しでも自分のもてる能力や才能を伸ばそうと、懸命な努力を重ねている若者たちも、けっして少なくありません。
安易に目前の快楽のみを求める若者たちの行きかたは、蟻とキリギリスの寓話の教訓をまつまでもなく、苦労を続けながらも真剣に生きている多くの人たちに比べて、あまりにも人間として分別
のない、しかも後に必ず苦しみと後悔をともなう生きかたではないかと思います。
だからといって、人間は若いときには何が何でも苦労ばかりをして、楽しみなどを求めてはいけない、というのではありません。
青年の時代こそ、人生を真に楽しんで生きていくための基盤を、しっかりと築き上げる時であると言いたいのです。
「楽しみ」というものの本質について、仏教では、五官から起る欲望を五識によって満たし、意識(心)にここちよく感ずることであると明かしています。
五官とは、眼(視官)・耳(聴官)・鼻(嗅官)・口(味官)・皮膚(触官)をさします。
すなわち、眼にあざやかな色形を見る楽しみ、耳にここちよい音や響きを聞く楽しみ、鼻にかおりのよいものを嗅ぐ楽しみ、口中の舌においしいものを味わう
楽しみ、皮膚(身体)にここちよいものが触れる楽しみを欲するところを五欲といい、五官によって判断することを五識といいます。
要するに、人間の楽しみのほとんどは、この五欲の一つ一つが満たされるか、そのいくつかが同時に満たされるかの度合いに応じて起こる、情感であることがわかると思います。
したがって、五欲そのものは、けっして悪いものではありません。しかしそこに、人間の煩悩〔貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)などの迷い〕が働きかけた
時、はじめて五欲は、無謀性を発揮し、欲望の暴走となってあらわれたり、意のままに満たされない不満がつのって、怒りを感じたり、落胆のあまり、自暴自棄
になったりして、自分や社会をめちゃめちゃに破壊してしまうことにもなりかねないのです。
五欲とは、ちょうど火のようなものだといえます。火そのものは悪でも善でもありませんが、私たちの使いかた如何によっては、生活に欠かせない便利なものにもなる半面
、不始末などがあれば、すべてのものを一瞬のうちに灰燼(かいじん)にしてしまう、ということにたとえられるでしょう。
いわば、一時の快楽を飽きることなく求める若者たちは、煩悩の働きがそれだけ旺盛だともいえましょう。その旺盛な煩悩の猛火をそのまま自分の将来の幸福と社会に役立つ有益な火に転換させるところに、正しい宗教と信仰のもつ大きな意義があるのです。
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8. |
宗教は思考をマヒさせ、人間を無知にするのではないか |
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宗教を信ずると、その宗教に没頭するあまり冷静な思考能力や批判力、判断力がマヒして、自分なりの理性を持てなくなるのではないか、という危惧をもつ人がいます。
たしかに、なんらの教義をもたない低級な新興宗教をはじめ、数多くの宗教は、たんに忘我の境地や、あきらめることのみを教え、人間の思考能力をマヒさせています。ここに邪な宗教の恐ろしさがあります。
しかし、正しい因果の道理を説く仏教、なかでも法華経の教えにおいては、“聞(もん)思(し)修(しゅう)の三慧(さんね)”といって、仏道を成就するためには正法をよく聞き、思惟し、修行しなければならないと説いてます。
日蓮大聖人は、
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず」(諸法実相抄)
と教示されるように、正しい教えに則り、修行と研学によって仏法の精神を求めることの大切さを説かれています。
また法華経を持つ者の功徳の姿を示して、
「日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は明鏡に万像を浮かぶるが如く知見する なり。此の明鏡とは法華経なり」(御義口伝)
と説かれています。すなわち正しい仏法を信ずることによって、生命の本源が活動し、物ごとを正しく知見できるというのです。反対に間違った宗教を信ずる者
や正しい仏法を持たない者は迷える心、煩悩の生命から物を見、考えているために、すべてを正しく見ることができないのです。まさに本心を失っているような
ものです。
これについて、大聖人は、
「本心と云ふは法華経の信心の事なり。失と申すは謗法の人にすかされて、法華経を 捨つる心出来するを云ふなり」(御講聞書)
とも説かれています。ここでいう本心とは、世間的な迷いの凡智ではなく、本仏本法によってもたらされる仏智であり、人生においてもっとも大切な真実の幸福を確立する仏界の心を指しているのです。
ですから、真実の仏法とは、本心たる智慧の眼を開かせ、正しい人生を歩ませるための英知を、生命の根源から涌現させるものであることを知るべきでしょう。
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9. |
宗教が社会に評価されるのは福祉活動だけではないか |
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「福祉」という言葉は、“幸福”の意味ですが、広くいえば宗教の目的とも考えられます。しかし、ここでいう「福祉」は、困窮している人に物を恵み、飢えた人に食を与え、不自由な人の手助けとなり、なぐさめるという、一般
的な意味であろうと思います。
たしかに極端な個人主義と利己主義によるぎすぎすした現代にあって、他人の幸せを願い福祉活動に奉仕することはきわめて尊いことであり、さらに広く深く社会に定着させてゆかねばなりません。政治や行政の面
からも福祉政策を協力に推進してほしいと願わずにはいられません。
しかし宗教の存在価値や目的が福祉活動への奉仕だけであると考えるのは、大いなる誤解です。なぜならば、宗教とりわけ仏法では、正法によって生老病死の
四苦を解決し、成仏という確固不動の安穏な境地に至ることを真実の救済とし、本来の目的としているのに対し、一般
的な福祉活動はあくまで表面的一時的な救済措置だからです。
またもし宗教の存在価値が、人々に物を与え、不自由な人の手助けをし、悩める人を慰めるだけで事足りるというならば、仏がこの世界に出現し、苦難と迫害
の中で身命を賭して法を説く必要があったのでしょうか。私たちも本尊を礼拝し、修行を積み、教義の研鑽をすることもすべて不要となってしまうではありませ
んか。
真実の宗教とは正しい法を信仰することによって、生命の根源に光をあて、活力にみちた仏の働きをわきあがらせて、力強い人生を確立することにその目的があるのです。
他人への親切や親への孝養といっても具体的な形態はさまざまです。仏法では人間を深く観達したうえで、孝養に三種ありと次のように説いています。
「孝養に三種あり。衣食を施すを下品とし、父母の意に違わざるを中品とし、功徳を回向 するを上品とす」(十王讃歎抄)
ここにも、物を与える孝養は下品であり、意にかなうことが中品、仏法によって功徳を回向(自ら修行した果
報を他に回し向かわせること)することがもっとも尊いことであり上品であると明かしています。
物を与え、慰労するところの福祉活動が正しく実践され、持続し、実効を生むためにも、原点となる個々の人間に正しい智慧と活力を与える真実の仏法が必要なのです。
言い換えれば、福祉活動をはじめ文化・社会・教育・政治などの各方面における活動、そして人間がなすすべての営みの基盤となり、根底にあって善導し、活力を与えてゆくのが正しい宗教なのです。
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10. |
現実生活をさげすみ、偽善的態度をとる宗教者がきらいだ |
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世間の数多い宗教家といわれる人の中には表面はいかにも聖職者らしく、俗界を超越した仙人か生き仏のように振舞い、世俗の人々を見下した態度をとる人がいます。
とくにキリスト教や戒律を重んずる宗教、新興宗教の教祖と称する人にこの傾向が強いようです。
しかし本当にこの世に生きる身で、世間を超越することなどできるわけがありません。それこそ、“霞を食って生きる”ことなどできるわけがないのですか
ら、もし世俗を超越したように振舞ったり、現実生活を蔑む宗教家がいたならば、その人は明らかに偽善者であり、人々を欺いています。
涅槃経には、末代の僧侶について、
「持律に似像(じぞう)して少く経を読誦し飲食を貪嗜(とんし)して其の身を長養し、袈裟 を著(じゃく)すと雖も猶猟師の細めに視て徐(しずか)に行くが如く、猫の鼠を伺うが如し」
と説かれています。この意味は、表面は戒律を持ち少々の経を読んでいるが、内心は飲食を貪り、我が身だけを案じていることは、あたかも猟師が獲物をねらって徐行し、猫が鼠を伺っているようなものであるというのです。
また一方においては、表面上のつくろいもなく、はじめから宗教を生活の手段とし、商売人になりきっている宗教家もいます。
この種の人は、自己の修行研学はもちろんのこと民衆救済などまったく眼中にはなく、ただ欲心のみが旺盛な「葬式法事執行業」に堕しているのです。
これらの姿を見れば、宗教家を嫌うのも当然であろうと思います。しかし宗教家の中には堕落しているのもいれば、正法を護持し清潔高邁な人格と慈愛を有する人もいます。一般
の在俗の方でも同様に、周囲の信頼と尊敬を集める人とそうでない人がいます。この違いはなにに起因するのでしょうか。 日蓮大聖人は、
「法妙なるが故に人貴(たっと)し、人貴きが故に所尊(たっと)し」(南条殿御返事)
と仰せられ、人の尊卑は受持するところの法の正邪によると説かれています。はじめは正しい心をもった人間でも、信ずるところの法が邪悪であれは、人間性も
必ず濁ってしまいます。ですから、もしあなたが偽善的宗教家を忌み嫌うならば、その元凶である邪教悪法を恐れなければならないのです。
結論からいえば、末法という濁悪の現時における真実の本仏は、法華経文底秘沈(もんていひちん)の大法を所持される日蓮大聖人にほかなりません。
大聖人は、
「日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし」(一谷入道女房御書)
と仰せられ、日蓮大聖人こそ、すべての人々を慈しみ、守り、教え導く末法の仏であると明かされています。一切衆生を正道に導かんとする大聖人の慈悲の精神は、歴代の法主上人に受け継がれて日蓮正宗に伝えられています。
日蓮正宗は、小乗教のような戒律宗教でもありませんし、聖人君子になるための宗教でもありません。正宗の僧俗(そうぞく)はともに正法たる大御本尊を信受し、行学に励み、真実の平和と福祉社会の実現を目指して日夜精進しているのです。
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11. |
自己の信念を宗教としている |
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人は誰でもなんらかの信念を持って生きています。それも人生全般に関わる信念もあれば、人生の部分に対する信念もあります。
たとえば「宵越しの金は持たない」という人もいれば、「無駄遣いはしない」という人もいます。また「少々の熱や咳は働いていれば治る」と信じている人も
いれば、「少しでも具合が悪ければ医者に行くに限る」という人もいるというように、ひとりの人間の信念といっても、金銭面
・健康面・教育面・職業面などにわたって多種多様です。
しかもそれらの信念は、その時代や環境・年齢などによって変化することも多いのです。 それは人間の心が常に揺れ動くものであり、その心によって生み出される価値観や信念が定まることなく変化するのは当然といえましょう。と同時に私たち凡人の智慧や判断にはおのずから限界があることも当然です。
このような個人的な信念を宗教とする生き方が、はたして正しいのでしょうか。
「宗教」とは、真理を悟り究めた聖者が、人々のために根本の正しい道を説き示して救済することを意味しています。
すなわち、正しい宗教とは法界の真理を悟り究めた仏の教えであり、人生にとって不変の根本原理として、すべての人々を安穏な境界に導くとともに、人間に勇気と希望と活力を与える源泉なのです。
したがって仏の説き示された教えと、個人の不安定な信念とは天地雲泥の異なりがあるわけですし、これを同等に考えることは宗教の意義をまったく理解していないことになります。
個人の信念のみを強調して宗教を否定する人のなかには、「一定の宗教を持つと教義や規則に拘束されて、画一的な人生観や価値観を押しつけられ、人間の個性や自由が奪われるのではないか」と懸念するむきもあるようです。
しかし日蓮正宗の教えは、あたかもさまざまな草木や花をすべて育て養う大地のように、ひとりひとりの個性や信念を超えて、それぞれの人生を開発し、開花させるものであり、けっして画一的な価値観や思想を押しつけるものではありません。
現実に日蓮正宗を信仰する人々は、家庭や職業・年齢・地域などによってそれぞれ異なった信念のもとで生活しておりますし、個性も抑圧されるどころか、信仰に培われて、より健全にのびのびと発揮しつつ社会の中で活躍しています。
また日ごろはそれほど信念について固執したり深く考えているわけでもないのに、こと宗教の議論になると、とたんに取って付けたように「自分は信念を宗教にしている」などと理屈を並べる人もいるようです。
いずれにせよ私たちの能力には限界があり、性格的なくせもあれば欠点もあって、けっして完全ではありません。時には思い違いや人生を狂わせる考えに陥ることもありましょう。
あなたの信念をより正しく充実させ、しかも人生のうえでりっぱに結実させるためには、主体者であるあなた自身が大地のごとき正しい仏法に帰依し、信仰に励むことが絶対に必要なのです。
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12. |
宗教を持たなくても幸福な人はたくさんいるのではないか |
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幸福という概念は、人によっていろいろなとらえかたがあるようです。一般には、健康とか、家庭円満とは、金銭的に恵まれているといったよう
に、いわゆる、運がよく幸せなことや、心が満ちたりて楽しい状態にあることを指して幸福というようです。
しかし実際に今、健康に、家庭円満に、そして裕福に見える人たちが、必ずしもそれらに満足して楽しく生活してるとはいえない場合が多いのではないでしょうか。
むしろ、「珍膳も毎日食えば甘からず」とか「欲に頂なし」といわれるように、かえって、恵まれた生活に生ずる特有の倦怠や不平不満、欲望のぶつかりあいによる人間不信や争いなど、さまざまな不幸に苦しんでいるという例も、少なからずあるのです。
まれに、現在の恵まれた生活に満足している人があったとしても、人生の無常からは、どのような人もけっして逃れることはできません。
人生の無常とは、生あるものは死に、若きものは老い、健やかなるものも患うなど、一切のものは生滅し変化して、しばらくも同じ姿を保つことができないとの意味です。
仏典には、カビラ城の太子として、優れた身体を持ち、あらゆる栄華につつまれて暮らしていた釈尊が、そのすべてを捨てて出家し、さまざまな修行のすえ、三十歳の時、菩提樹の下で、ついに人生無常の苦を真に解決する法を悟られたと説かれています。
したがって、この世に人生無常の苦を真に解決して、生滅・変化に惑わされることなく、いかなる幸せをも自在に顕現していく道は、正しい仏法に帰依すること以外にはないのです。
それでもなお、あなたは「宗教をもたなくても幸福な人はたくさんいる」というのでしょうか。
それはまさしく「三重の楼の喩」(百喩経第十)に説かれる「富みて愚の人」と変わるところがありません。
そのたとえとは、あるとき、彼は他の富豪の屋敷が立派な三階建てであるのを見て、自分もそれにまさる建物を建てようと思い、すぐさま大工さんを呼んで頼んだのです。
さっそく基礎工事をして、一階を作り始めた大工さんに、不審を感じた愚かな富豪は「私は三階だけがほしいのだ、下の一、二階はいらないのだ」と言い張っ
て、「一階をつくらずに二階はできないし、二階をつくらずに三階はできない」という大工さんの言い分を、最後まで聞かなかったという話です。
正しい宗教を持たない人の幸福は、この愚かな富豪の考えと、同じようなものといっても過言ではありません。
しっかりとした土台の上にある建物は、どのような風にあたっても壊されることがないように、正しい宗教を人生の基礎とし・土台としたときには、いかなる無常の苦しみや不幸という風にも、けっして壊されることのない幸福を築いていけるのです。
このように、人生における確固不動の真の幸福は、正しい宗教を正しく信仰することによってのみ、もたらされるのです。
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13. |
人生の幸福とは努力以外にない |
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人生にとって、努力はきわめて大切なものです。なんの努力もせずに、幸せな人生を築けるはずはありません。
しかしながら、努力といっても、ただ自分の思いつきで、がむしゃらに何事にも挑戦さえすればよいというものではありません。
たとえば、これから書道を習おうとするとき、立派な先生について、修練と努力を重ねる人は、着実に進歩することでしょう。
しかし、師を求めず、自分の才能と、自分の信念で努力さえすればよいといって、ただ毎日書きなぐっているだけでは、上達することはできません。
このように、その努力をより価値あるものに実らせるためには、よき指導者の正しい教導に従って努力してこそかなうのです。
ましてや意義ある人生、幸せな家庭、人生の充実した喜びを持つためには、その基本となる人生についての、最大にして最高の指導者である仏の教導に触れるということが大切です。
私たちは人生の土台となる根もとに、真実の師である仏の教えを持ち、その上に幹となる自分自身の人格と人間性を磨きつつ、努力と精進を重ねる時、はじめて緑したたる大樹へと成長するのです。
日蓮大聖人は、
「蒼蠅(そうよう)驥尾(きび)に附して万里を渡り、碧蘿(へきら)松頭(しょうとう)に懸(か)りて千尋(せんじん)を延ぶ」(立正安国論) と仰せられています。
すなわち、青ばえのような小さな虫でも、駿馬(しゅんめ)の尾につくことによって万里を馳せ、つる草も松の大木にかかることによって、天高くのびていくことができるのです。
このように私たちもいかなる道を歩もうとも、正しい信仰を根本として努力を重ねるならば、正法の功力によって福徳の花が咲き、その努力が大きな実を結び、真実の幸せな生涯をまっとうすることができるのです。
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14. |
道徳さえ守っていれば宗教の必要はない |
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道徳とは現実の社会に、善良な人間として生きて行くために、みずからを律し、たがいに守るべき社会的な規範をいいます。
したがって社会生活上の正と不正・善と悪などの分別を心得て、みずからの良心にも、社会的な規範にも恥じることのないように生活してゆくことが大切です。
しかし、道徳はあくまでも、現実に生きている人間のいちおうの規範であって、それによって、先祖を救い、みずからの罪障を消滅し、さらには未来の子孫の幸せをもたらすなどという力はありません。
つまり道徳は、今世に生きる人々の生活を正し、人間性を高める意味での指針とはなりえても、仏教のように、過去・現在・未来の三世の因果
を説かず、三世にわたる一切の人々の救済とはなりえません。
日蓮大聖人は道徳と仏教の関係について、
「王臣を教へて尊卑をさだめ、父母を教へて孝の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依をしらしむ」(開目抄)
と仰せになって、道徳は仏法の先がけとして、その序分の役割をはたすものだと記されています。
昔から人の守るべき道徳の一つとして、「孝養」ということがよくいわれます。自分を生み、今日まで育ててくれた両親に対して、よく仕え、その恩に報いることは大切なことです。
しかし、仏法における孝養とは、ただ親の言葉にしたがい、親にものを贈ったり、年老いた両親の面
倒をみるということにとどまらず、正法の功徳によって、両親を始めとする一家・一族・一門の人々を、皆ともに救っていくというところにきわまるのです。
したがって仏法では正法による孝養を、「上品の供養」(もっとも勝れた供養)と名づけるのに対し、道徳における一般
的な孝養は、いわば「下品の供養」(上・中より下位の供養)にあたるとされています。
日蓮大聖人は、
「法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上 七代下七代、上無量
生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ(中略)『願はくは此の 功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』」(盂蘭盆御書)
と、正法を行ずる大善こそ、自ら仏の境地に至るのみならず無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと教えられています。
このように正しい信仰をとおして自分を磨き、さらに世の中の人々を教化して、正法の功徳を社会の一切の人々に及ぼし、ともどもに仏道を成就することが、最高最善の生き方となるのです。 |
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15. |
無神論ではなぜいけないのか |
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無神論とは、信仰の対象となる神や仏などの絶対的存在の事実と可能性を否定する考えで、「無信論」と書く場合もあります。無信論といっても、
信用とか信頼などの日常生活上の心理作用まで否定するのではなく、あくまでも宗教的な絶対者、あるいは絶対力の存在を認めないということです。
また無神論者の中には、いちおう他人の信仰を認めて、「神や仏は、いると思う人にとって存在するが、いないと思う者に存在しないものだ」と唯心的な主張をする人もいます。たしかに、ほとんどの宗教で解く神や仏は現実にこの世に出現したこともなく、因果の道理に外れた空想の産物ですから、無神論を唱えることも無理なからぬことかもしれません。
これに関して面白い話があります。あるキリスト教の教会で、全知全能の神について語り終えた牧師に向かって、ひとりの少年が尋ねました。「何でも可能な
全知全能の神様は、自分で持ち上げられない石を造れますか」と。牧師は返答に窮して口を閉じてしまったということです。
この話は、現実を離れ空想によって生み出された神が、いかに矛盾にみちたものであるかを、短い中に鋭く指摘しています。
しかし、だからといって無神論が正しいということではありません。無神論者と称する人は、神や仏がまったく存在しないことを立証できるのでしょうか。少なくとも仏教に耳を傾け、仏典を繙いたことがあるでしょうか。
もしあなたが自らの狭小な体験や臆測をもって、無神論を主張するならば、それはあまりにも単純な発想であり、甚だしい無認識の評価であるといわざるをえません。
いま参考までに仏教の概要を説明しますと、仏教は今から三千年ほど前、インドに出現した釈尊によって説かれました。釈尊は当時流行していた超現実的な絶
対神を立てる宗教を邪義として排斥し、自らの修行と思索によって悟り究めた法を五十年間にわたって諄々(じゅんじゅん)と説き、その最後に究極の実教たる
法華経を宣説されました。
その教えは、因果の理法を基底として、法界の真理と人間生命の実相を開示するものであり、衆生が生老病死の四苦を根本的に解決して真実の幸福境界に至る
ことを目的としたものでした。そして法華経に予証されたとおりに末法の御本仏が日本に日蓮大聖人として出現されたのです。
日蓮大聖人は末法万年の衆生の苦しみをのぞき、幸せを与えるために、心血を注いで多くの教えを遺すとともに、一切衆生成仏の法体として大御本尊を図顕されました。
この大聖人の仏法は、経文に照らし合わせ(文証)、因果律や現実の道理に照らし(理証)、実際に信仰した結果を見ても(現証)、一点の曇りもないもっとも正しい教えであることが立証できるのです。
もしあなたが、仏の悟りや御本尊の功徳力を信じられないというならば、謙虚に仏法の教えを乞い、自ら仏道を求めるべきでありましょう。
日蓮大聖人の仏法が七百年間、厳然と存在し、全世界にわたる多くの人々に生きる力と、喜びを与えていることはまぎれもない事実です。
この事実に目をつぶって、「この世に神や仏などあるはずがない、信じたくない」と無神論に固執するならば、それは、精神異常者のような精神構造というべきです。
日蓮大聖人は、無心・無行の者に対して、
「謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生ま れて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり」(戒体即身成仏義)
と仰せられ、法華経を信仰しない者は、仏をそしり正法に背く大罪であると、固く戒められているのです。
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1. |
神仏を礼拝することが尊いのであるから、何宗でもよいのではないか |
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宗教に限らず、人間にとって敬い、信ずるということは大切なことです。 日常生活においても信頼する心がなかったならば、食事もできませんし、乗り物はおろか、道を歩くことも、家に住むことさえできないでしょう。 では反対になんでも無節操に信ずればよいかというと、それもいけません。道に迷ったときは道をよく知ってい
る人に尋ねれば、間違いなく目的地に着くことができます。私たちは目的地に正しく導いてくれるものを信用したときには、所期の目的が達成されるわけです
し、反対にいつわりのものや目的と違ったものを信じたときには、思い通りにならず、不満や不幸を感ずるのです。
質問のように、神仏を信ずる心が尊い、神仏を礼拝する姿が美しい、だから何宗でもよいというのは、詐欺師の言葉でもそれを信ずることが尊く、ブレーキのこわれた車でも信じて乗ることがよいということと同じです。
私たちの生命は周囲の環境に応じて、さまざまな状態やはたらきをします。ちょうど透明な水の入ったコップが周囲の物や光によって色が変化するようなもの
です。「朱に交われば赤くなる」という言葉も、周囲の縁によって感応する私たちの生命のはたらきを指したものでありましょう。信仰は“信ずること”であ
り、“礼拝すること”なのですから、単に交わるとか尊敬する状態よりさらに強い影響を受け、それによってもたらされる結果
や報いは、人生に大きな影響を与えることになります。
いいかえれば、信仰における礼拝は、その対象たる本尊に衆生の生命が強く感化されるのであり、人間の生命と生活の全体に、これほど強烈に働きかけ、影響
を与えるものはないのです。ですからいかに信ずることが尊いといっても、人間に悪影響を与える低劣な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、その本尊や教えに
感応して、次第にその人は濁った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。
たとえば「稻荷」と称してキツネを拝んでいると、本尊のキツネの生命に、その人の畜生界の生命が感応して、その人の性格や行動、さらには人相まで似てき
ます。本来ならば過去と将来を考え、理性をもって生きるはずの人間が、畜生を拝むことによって計画性や道徳心が欠落し、人間失格の人生に変わってゆくので
す。もし架空の本尊や架空の教義を信仰すれば、同じように人間でも、人生も、生活も実りのない浮き草のようなものになってしまいます。
せっかく信仰心に目覚めたのですから、理論的にも正しく、経典によってその正しさが証明され、現実に人々を幸福に導く真実の本尊と真実の教えを説き明す宗教に帰依すべきでありましょう。
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2. |
宗派は分かれているが、到達する目的はおなじではないか |
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宗派は別でも宗教の目的は同じなのだから、どの宗派でもよいのだ、と主張する人の中には、「分け登る 麓の道は多けれど 同じ雲井(くもい)の月をこそ見れ」という歌を引き合いに出すことがあります。
しかし、これはあくまでもひとつの古歌であって、実際は同じ麓の道でもひとつは他の嶺(みね)に至るもの、別
な道は山ではなく池に至る道かもしれません。なかには命を落とすような危険な谷に通
じている道であるかもしれません。ですから歌やことわざにあるからといって、それを証拠に宗教を論ずることはできません。 いま各宗派の教義をみると、教主も本尊も修行も経典も、それぞれまったく異っています。
キリスト教はイエスキリストによって神(ゴッド)が説かれ、バイブルを教典としておりますし、イスラム教はマホメットによってアラーの神への帰依が説か
れ、コーランを所依の教典としています。儒教は孔子によって道徳が説かれており、仏教は釈尊によって三世の因果
律という正当な原理を根本として、人間の生命とその救済を説かれたものです。
しかも同じ仏教の中でも、小乗教は劣応身という仏を教主として戒律を説き、一切の煩悩を断じ尽した阿羅漢という聖者になることを目的としています。
これに対して大乗教の中でも、華厳経を所依とする華厳宗、方等部から発した真言宗、淨土宗、禅宗など、般
若部の教理をもとにした三論宗など、これらは経典がそれぞれ違うわけですから、当然教義や修行、目的、教主がすべて異っているのです。
まして「唯有一仏乗」といわれる法華経は今までの四十二年間の教えとは比較にならない深遠な教理と偉大な仏の利益、そして真実の仏身が説き現わされたものです。
その目的も、今までの経教では、三乗即ち声聞を目的とする者、縁覚を目的とする者、菩薩になることを目指す者をそれぞれ認めて、それに見合った教義と修行を別
々に説いていたのですが、法華経に至ると、今までの三乗を目的とする教えは方便であり仮りのものなので、すべてこれを捨てよ、信じてはならないと釈尊自らが戒められ、一仏乗すなわちすべての人が仏の境界に至ることこそ真実の目的であると教示されました。 このように宗教と言っても宗派によって本尊も教義も目的もまったく異っているのです。
もしあなたが“宗教”という大きな意味で、目的が“救済”ということだから、どれでも同じだというならば、それはあまりに大雑把な考え方だというべきでしょう。
それはあたかも“学校”はどこも“教育”を目的にしていることは同じだからといって、小学校でも大学でも自動車学校あるいは料理学校でも、どこへ通
っても同じだということと同じです。
宗教の選択が人間の幸・不幸にかかわる大事であることを知れば知るほど、このような無責任で粗雑な判断は当を得たものでないことがわかると思います。
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3. |
どんな宗教にもよい教えが説かれていると思うが |
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これについて二点から考えてみましょう。 その第一は、教義の善し悪しとは何によって決められるかということであり、第二には宗教とは観念的な理論のみではなく、実践がともなうものであるということです。
まず第一の教義の善し悪しですが、もし一般的な道徳や常識という見地に立てば、人殺しや盗みを奨励する宗教でないかぎり、よい教えを説いているようにみえます。
しかし、宗教は個人の身体と精神を含む全人格が帰命し、よりどころとするものですから、高い教えと低い教え、部分的な教えと大局的な教えの相違は、信ず
る人間性に対して敏感に影響します。したがってひとりの人間をより根本から蘇生させ本源的に救済するためには低級で部分的なものではなく、高度で大局的な
教えに帰依しなければなりません。
日蓮大聖人は、
「所詮成仏の大綱を法華に之を説き、其の余の網目は衆典に明かす。法華の為の網目なるが故に」(観心本尊得意抄)
と仰せられ、法華経という大綱があって、はじめて法華経以前に説かれた諸々の教えが生かされると説かれています。
仏教以外のキリスト教やマホメット教、儒教、神道、なども一見すると人倫の道が説かれており道徳的にはよい教えのようですが、人間の三世にわたる生命論
や、人間が具有する十界三千の実相が説かれていませんし、これらを仏教とりわけ法華経と比べるとまったく低級な宗教であることがわかります。また、
「無量義とは一法より生ず」(無量義経)
ともいわれますように、唯一無二の大綱たる一法を信受するとき、種々の経々に説かれている功徳利益のすべてがはじめて生きてくるのです。
この一法こそ仏法の上からいうところの真実の一法であり、もっとも正しい教えなのです。
次に宗教には必ず実践がともないますから、理論的にはいかに立派な教えであっても、それが現実に生かされないものであれば、なんの役にも立ちません。
その理論的教義を現実に証明し民衆を救済する教主が出現するかしないかは、その宗教が真実か空想かという違いでもあります。教主がみずから出現し、正法正義を説いてそれを実践し証明したとき、はじめてその宗教は信憑性のある宗教といえるのです。
たとえば新興宗教のなかにモラロジー(最高道徳)という宗教がありますが、その教義は“釈迦・キリスト・孔子などの教えの中からそれぞれよいところだけを取り出して実践する”というものです。
しかし、同じ釈尊の教えの中でも、二百五十戒、五百戒という戒律の実践を説く教えもあれば六度の修行〔布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんに
く)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)〕もあり、以信得入(いしんとくにゅう)すなわち信ずることが悟りに入ることであるとも説い
ています。このなかのどこをよい教えとして用いたり、反対に切り捨てたりするのでしょうか。
これを靴にたとえれば、雨の時はゴムの長靴が最適であり、登山には登山靴、野球・テニス・サッカーなどにはそれぞれ目的にかなった靴があります。また海水浴の時はだれでも、はだしになるわけです。
これらをすべてがよいからといって、すべての靴のよいところと、はだしをいっしょに用いることなどはできるわけがありませんし、そんなことを言えば狂人と笑われるでしょう。
このモラロジーという宗教が犯している誤りのひとつは、大綱と網目の相違、すなわち大局的・総合的な教義と部分的な善悪との判断がつけられず、無節操に
どれでもよいと考えていることであり、もうひとつは生きた例証もなく、実践も不可能な空想論をかってに教義と称して信者に押しつけることにあります。一見
するとよい教えのように思われる宗教でも、よく検討するならば、低級宗教や、邪悪な宗教であると気がつくでしょう。
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4. |
どんな宗教にも、それなりの利益があるのではないか |
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すべての宗教かどうかはわかりませんが、低級宗教や教義もないような宗教、あるいは宗教ともいえない精神統一などにも一分の利益というべき結果
が見られる場合があります。人によってはこの一分の結果や様相が御利益のように感じられるのでしょう。
しかし、人間の生命には一念三千といって三千種類の生命状態が可能性として潜在しており、それが縁にふれて様々な作用をするわけですから、周囲の状態
(縁)を変えることによって今までとは違った心境や状態になることもありうるのです。生活と仕事に追われていた人が、心を鎮めて何かを拝み祈ることによっ
て、今までとは違った心境になるでしょうし、時には精神の変化が肉体に影響して病気が好転することも不思議なことではありません。
また、祈祷師や占い師などのように利根や通力という一種の超能力をもって、他人の願いごとを祈ったり、将来を占い、それが時にはかなったり当たったりす
ることもあるでしょう。これなども人間生命の潜在的可能性の一分が現われたものであり、あっても不思議ではありません。
しかし日蓮大聖人は、
「利根(りこん)と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄)
と説かれ、人間の真の幸福は仏の境界に至ることであり、このような超能力によってはいけないと戒めています。
ともあれ、宗教の高低・正邪をとわず、いずれの宗教にも一部分の利益ともいうべきものがあるかも知れませんが、私たちの真実の幸福は一時的な神だのみ
や、目先の急場しのぎによって得られるものではなく、宇宙法界を悟った仏の教えにしたがい、正しい本尊を信仰することによって得られるものなのです。
すなわち本仏の慈悲によって仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって人間としての福徳を備え、清浄にして自在な仏の境界を現実生活の中で生かしていくことが仏教の目的であり、真実の大利益なのです。
たとえば、ここに幸福に到達する正しい道と不幸に至る邪な道があるとします。正しい道は向上するものですから、険しい坂道や困難な壁にぶつかることもあ
りましょう。反対に邪な道は下降する道ですから、快適な下り坂があり途中には美しい花が咲いているかもしれません。
しかし一輪の花や下り坂に魅せられて不幸な破滅の道を選ぶべきではありません。邪な宗教によって一分の利益がもたらされるのは、あたかも詐欺師がはじめ
に正直者を装い、おいしい餌を相手に与えるようなものであり、正しい宗教に帰依することを妨げようとする魔の働きなのです。
一時的、表面的な結果のみにとらわれることなく、正しい教理と経文、そして現実の証拠がそなわっている正しい宗教によって、正しい人生を歩むことこそ人間としてもっとも大切なことなのです。
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5. |
仏教はすべて釈尊から出ているのだから、どれを信じてもおなじではないか |
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今から三千年前にインド北部のカピラ城の王子として誕生した釈尊は、19歳のとき修行者となり、30歳の時にガヤ城の近くで悟りを開きまし
た。その後80歳で入滅するまで50年の間、人々に悟りの法を教えるためにさまざまな教えを説きました。
中国の天台大師は、釈尊の五十年間の説法を深く検討して、その内容から説法の時期を五つに区分しました。これが「五時(ごじ)」といわれるものです。また「八教(はっきょう)」という区分けもしていますが、ここでは「五時」によって説明しましょう。
○第一は華厳時(けごんじ)といって、釈尊は開悟の後、直ちに21日間にわたって哲学的な十玄六相(じゅうげんろくそう)などの教理を説きましたが、聴衆はまったく理解できませんでした。
○第二は阿含時(あごんじ)といって戒律を中心とした教えを12年間説きました。これは三蔵教(さんぞうきょう)あるいは小乗教といわれ、仏教の中でもっとも低い教義です。
○第三は方等時(ほうどうじ)といって幅広い内容の教えを16年間説きました。これは弾訶(だんか)といって小乗教に執着する人を叱責し、大乗教すなわち自分のみでなく他人をも内面
から救う教えに帰入(きにゅう)させるものです。
○第四は般若時(はんにゃじ)といって14年間、空すなわちこの世のものは何ひとつとして定まった実体などなく、執着すべきものはないという教えを説きました。
この般若と第一華厳・第三方等は大乗教ですが、いまだ釈尊が久遠(くおん)の仏であることを明さず、人生の目的は三乗〔声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)〕にあるとして、真実を示さない仮りの教えでした。
○第五時の法華経(ほけきょう)を説法するために、釈尊はまず無量義経を説きましたがその中で、「仏の眼をもって衆生の根性を見るに、人々は種々様々の心根だったので、まずそれを調えるために種々の方便の力を用いたり、仮りの法を説いたのである。」
と説明し、 「四十余年には未だ真実を顕さず」(無量義経)
と説いています。そして法華経8年間の説法で、はじめて真実の教えとして、いかなる人もその身のままで仏の境界に至る一仏乗の法を説きあらわしたのです。
現在、東大寺を本山とする華厳宗は第一華厳時の教義を所依とし、タイやビルマなどに残っている戒律仏教や、律宗などは第二阿含時の経典を教義としています。
また浄土宗、禅宗、真言宗、法相宗などは第三方等時の経典からそれぞれ宗義を立てており、天台宗や日蓮宗各派のように法華経を依経としていても迹門
(しゃくもん)の観念的教理を中心としているなど、いずれの宗派も、末法現時に適した究極の教えである法華経本門の法を依教としていません。
法華経本門の教えとは、釈尊が久遠の昔に成仏するために修行した根本の原因となる一法であり、それは日蓮大聖人が唱えあらわされた南無妙法蓮華経に尽きるのです。
このように同じ仏教といっても、教義の内容や目的、そして修行もまったく違うのですから仏の本意に基づく真実の教えに帰依しなくてはなりません。
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6. |
先祖を崇拝することがまちがっているのか |
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先祖を敬い、崇めることは、仏法の教義に照して、決してまちがいではありません。むしろ人間としてたいへん立派な行為といえます。
しかし先祖を神として祭ったり、「仏」と呼んで祈願や礼拝の対象とすることは誤りです。なぜならば先祖といっても、私たちと同じようにひとりの人間とし
て苦しんだり悩んだり、失敗したり泣いたりしながら生きた人たちであり、生前も死後も悪縁によれば苦を感じ、善縁すなわち正法によれば安楽の果
報を受ける凡夫であることに変わりがないからなのです。
言いかえれば人間は死ぬことによって、正しい悟りが得られるわけではありませんし、子孫を守ったり苦悩から救ったりできるわけでもないということです。
世間では先祖や故人を「仏」と呼ぶ場合がありますが、これは仏教の精神から見て正しい用法ではありません。
仏とは仏陀(ぶっだ)とも如来(にょらい)ともいい、この世の一切の真実の相(すがた)と真理を一分のくもりもなく悟り極めた覚者という意味です。
仏教の経典には阿弥陀仏や薬師仏、大日如来などたくさんの仏が説かれておりますが、これらの仏について、法華経には、
「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり」(観普賢経)
と説かれ、日蓮大聖人も、
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏になり給ひしなり」
(法華初心成仏抄)
とのべられているように、多くの仏はすべて大乗経典たる妙法蓮華経という本法を種として仏となることができたのです。
この原理は私たちや先祖が何によって真に救われるかをはっきり示しています。
すなわち本当に先祖を敬い、先祖の恩に報いる気持ちがあるならば、生者死者をともに根本から成仏せしめる本仏本法に従って正しく回向(えこう)供養しなければなりません。
また先祖の意志を考えてみますと、先祖の多くはわが家の繁栄と子孫の幸せを願って苦労されたことでしょう。急病の子供を背負って医者を探し求めたこともあったでしょうし、妻子を助けるために我が身を犠牲にされた方もいたことと思います。
このように一家の繁栄と幸福を願う先祖がもし、自分の子孫のひとりが、真実の仏法によって先祖を回向し、自らも幸せになるために信仰を始めたことを知っ
たならば、家代々の宗教を改めたことを悲しむどころか、「宿願(しゅくがん)ここに成れり」と大いに喜ぶはずです。
先祖を救うという尊い真心を正しく生かすためには、先祖の写真や位牌を拝むことではなく、三世諸仏の本種(ほんしゅ)である南無妙法蓮華経の御本尊を安置し、読経唱題して回向供養することがもっとも大切なのです。
日蓮大聖人は、
「父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給ふべし。(中略)定めて過去聖霊(し ょうりょう)も忽(たちま)ちに六道の垢穢(くえ)を離れて霊山浄土へ御参り候らん」(刑部左衛門尉女房御返事)
と、妙法によって先祖を供養するよう教えられています。
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7. |
他の宗教で幸福になった人もいるのではないか |
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私たちの周囲には、さまざまな宗教や信仰によってそれなりの幸せを感じて暮している人もいるようです。
しかし人は幸福そうに見えていても、その実体はわからないものです。
外見は大邸宅に住み、社会的にも恵まれた地位にありながら、非行や障害のある子供を持って、苦労している人もあり、家庭内の不和や、親族間の財産争いに明けくれている家もあります。
また、現在は一時的に満足できても、明日の確かなる保障は、どこにもないのです。
したがって、他の宗教を信じて確かに幸せになったなどと軽々に結論を下すことはできません。
また、「積善(せきぜん)の家には余慶(よけい)あり」ということわざがあるように、その家の過去の人々の善業が、今の人々の身の上に余徳となって現われている場合もありましょう。
信仰には、確かに現世の利益がなくてはなりませんが、反面、その一時の小さな利益のみに眼がくらんではならないのです。
たとえば、ある宗教を信じ、高名な霊能者などに相談を持ちかけ、少しばかりよいことがあったり、商売が上向いたことがあったばかりに、その宗教や霊能者に執心し、真実の仏法の正邪や、正しい因果
の道理に則った判断ができなくなってしまうようなものです。
他の宗教で幸福になったと思う人も、大概はこうした人々であって、いわば一時の低い利益に酔いしれているようなものです。厳しい言い方をすれば、浅薄な宗教を信ずるということは、より勝れた根本の教えを知らず、結果
的には最勝の教えに背くということであり、その背信の罰をのがれることはできません。
ちょうど、悩みや苦しみを、お酒によってまぎらわしたり、麻薬の世界に一時の楽しみを求めた人たちが、その悦楽から抜け出せず、結局、アルコール中毒
や、取り返しのつかない廃人となってしまうように、他宗の小利益に執する末路には、大きな不幸、すなわち、最高・最善の仏法に背く大罰が待ちうけていると
いうことを知らなければなりません。
つまり、いつとはなしに身心ともにむしばまれた、地獄のような生活に堕してしまうのです。
日蓮大聖人は、
「当(まさ)に知るべし、彼の威徳有りといへども、猶(なお)阿鼻(あび)の炎をまぬかれず。況(いわ)んやわづかの変化(へんげ)にをいてをや。況んや大乗誹謗(ひぼう)にをいてをや。是一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏(おそ)るべし畏るべし」(星名五郎太郎殿御返事)
と説かれており、他宗を信ずることによってもたらされる現象は、けっして功徳とはならず、むしろ、正法への帰依を妨げ、不幸へと導く悪知識であると仰せです。
幸福の条件のひとつには、現在の生活の上におけるさまざまな願望の充足が挙げられますが、人間にとって、最高の幸せはなんといっても、過去・現在・未来の三世にわたる、ゆるぎない成仏の境界であって、真の幸福とはここに極まるものなのです。
そして、この三世にわたる成仏は、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の大法を離れては、絶対にありえないのです。
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8. |
他の宗教によって現実に願いがかなったので信じているが |
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日蓮正宗以外の宗教を信じ、“商売がうまくいった”とか、“病気が治った”という人がいます。また日蓮正宗に入信しても、初めは周囲の反対や人間関係などで苦労する人もいるかもしれません。
しかし、正しい仏法とは私たちに正しい本尊と修行を教え、身心両面にわたって育成錬磨し、究極の目的である仏の道を成就させることを目的としています。
正しい仏道修行をすることによって、いかなる苦難や障害がおきてもそれを乗り越えていける人こそ真に幸せな人なのです。困った時だけ拝み屋のような宗教
にすがって一時しのぎの解決をしても、それは人生の本質的な幸福につながるものではありません。たとえば、勉強をしない子供に試験の時に答えだけを教え
て、よい点数をとらせたからといって、その子供の学力が向上することにならないと同様なのです。
もし現在、悩みがあったとしても、善因を積んで善果を生ずるように、その原因をよく知って、正法正義に帰依しなければ真の解決にならないことを知るべきです。
また、低俗な宗教によって悩みが一時的に解決したからといって、それが人生のすべてに通用し、人生の苦を根本から解決できることになるわけではありません。むしろ苦難に遭った時に努力することを忘れて一時の神だのみに走ることだけが身についてしまうでしょう。それはその人にとって決してよい結果
とはいえません。
悩みや問題はひとそれぞれにさまざまですが、その人の生い立ちや周囲の縁、年齢や心がけなどによって解決のかたちもまた異なっています。
たとえば、種をまいても直ちに花を開かせることはできませんが、時が至れば必ず開花するように、時と機が熟さなければ解決しない場合もあるのです。
また誤った宗教に縁することによって、願いがかなったこと以上に生命が汚染され、将来大きな苦しみを生ずる業因となることをよく認識すべきです。
日蓮大聖人は、
「又一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験(しるし)の有る様なりとも、終には其の身も檀那も安穏なるべからず」(諌暁八幡抄)
と仰せられ、一時的に祈りがかなったように見えても、邪宗教によるものは、正法を隠蔽(いんぺい)しようとする魔の所為(行い)にすぎないと説かれています。
そして正法による祈りについて、
「大地はさゝばはづるとも、虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ
事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(祈祷抄)
とものべられ、人生根本の大願たる成仏も、強い信心によって必ずかなうと教示されています。
また日寛上人も、日蓮大聖人建立の大御本尊の利益について、
「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(観心本尊抄文段) と仰せられています。
真実の祈りは、正法正義による仏道修行によってかなうのであり、低俗な宗教によるならば、かえって苦業をますことを知るべきでありましょう。
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9. |
先祖が代々守ってきた宗教を捨てることはできない |
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誰しも先祖代々長く守ってきた宗教に愛着があり、その宗旨を捨てることは先祖の意に背くように思い、一種の恐れのような感情を抱くのは、無理からぬことです。
しかし、先祖がいったい、どうしてそうした宗教を持ち、その寺の檀家になったかということを、昔にさかのぼって、考えてみますと、その多くは、慶長17年(1612年)に始まる徳川幕府の寺請制度によって、強制的に菩提寺が定められ、宗門人別帳(戸籍)をもって、長く管理統制されてきた名りによるものと思われます。
江戸時代は信仰しているかどうかにかかわらず、旅行するにも、移住するのにも、養子縁組するにも、すべて寺請の手形の下付が必要だったのです。もちろん宗旨を変えたり檀家をやめることは許されませんでした。
したがって、庶民は宗教に正邪浅深があり、浅い方便の教え(仮りの教え)を捨てて、真実の正法につくなどという化導を受ける機会もありませんでした。せいぜい現世利益を頼んで、檀家制度とは別
に、有名な神社仏閣の縁日や祭礼に出かけたり、物見遊山を楽しむぐらいのものでした。
しかし現代は、明治から昭和にかけての国家権力による宗教統制もようやく解けて、真に信教の自由が保障され、みずからの意志で正しい宗教を選び、過去の悪法や制度に左右されることなく、堂々と正道を求めることができる時代になったのです。
言葉をかえて言えば、今こそ先祖代々の人々をも正法の功力によって、真の成仏に導くことができる時がきたのです。
釈尊の本懐(ほんがい)である法華経には、
「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり」(宝塔品第十一)
と説かれています。
すなわち、世間の人々の中傷や妨害のなかで、妙法蓮華経の大法を信じ持つことは、なまやさしいことではありません。しかし、持ち難く行じ難いからこそ、三世十方の諸仏は歓喜して、その妙法の持者を守るのだと説かれているのです。
また日蓮大聖人は、
「今日蓮等の類聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目
の光無間(むけん)に至って即身成仏せしむ」(御義口伝)
と仰せられています。
ほんとうに先祖累代の父母を救おうと思うならば、日蓮大聖人の仰せのように、一乗の妙法蓮華経の題目の功徳を供え、真実の孝養をつくすことが肝心なのです。
今のあなたが、先祖が長い間誤りをおかしてきた宗教を、そのまま踏襲することは、あまりにもおろかなことです。
自分のあさはかな意にしたがうのではなく、正法にめざめてこそ、始めて先祖累代の人々を救い、我が家の幸せを開拓し、未来の人々をも救いうるのだということを知るべきです。
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10. |
自分の気に入った宗教が一番よいと思う |
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近年、世間を騒がせたオウム真理教の信徒たちは、麻原教祖に洗脳されて、ある者は殺人者となり、ある者は見せしめのために殺されました。
またアメリカにおいては、人民寺院を標榜(主張)する新興宗教の教祖の教えによって、集団生活をしていた千名近い信者が、ことごとく自殺して果(は)てるというすさまじい事件もありました。
こうしたことは、極端な例ですが、誤った思想や宗教の恐しさを如実に象徴したものといえます。
人はかたよった思想や邪宗教にとりつかてれしまいますと、その教えに熱中するあまり、人を人とも思わず、人の命すら自分たちの集団の論理で平気で葬ってしまうのです。
思想や信条、ことに宗教という人間の生活規範にかかわる大切なものは、何よりも明るく清々しく健康的な理念で、うら打ちされていることが必要です。人々を心の底から躍動させる歓びにあふれたものでなければなりません。
洋服や食べ物ならば、自分の好きなものを選べばよいのですが、自分の人生や家庭、生活に重大な影響を持つ宗教の場合は、その根本たる本尊や教義の内容を正しく取捨選択することが大切です。
宗教の正邪・勝劣を知るためには、少なくともその宗旨が何を本尊とし、何を信仰の対象としているかということを、まず尋ねる必要があります。
また、本尊とともに、その宗教の教義が正しいと判断されるためには、一切の人々が過去・現在・未来の三世にわたって救済されるのみならず、地獄界から仏
界(ぶっかい)に至る十界(じっかい)のことごとく生きとし生けるもののすべてが、根本的に救われる道理と法門が解き明かされていなければなりません。
日蓮大聖人は、
「同じく信を取るならば、又大小権実のある中に、諸仏出世の本意、衆生
成仏の直道の一乗をこそ信ずべけれ。持(たも)つ処の御経の諸経に勝れてましませば、能く持つ人も亦諸人にまされり」(持妙法華問答抄)
と仰せられています。
信仰を志すならば、好ききらいで判断するのではなく、もっとも勝れた本尊と教義のもとに誓願の尊さと修行の正しさを教示された宗教を求めるべきです。
そして永遠性や普遍性にとみ、広大無辺の功徳の備わった世界一の宗教を持つべきです。
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11. |
自分は先祖の位牌を祭っているので、それで充分だ |
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位牌(いはい)とは昔中国において、存命中に受けた官位や姓名を記した木牌(もくはい)に始まるといわれています。
日本では、葬儀のときに白木(しらき)の位牌に法名、俗名、死亡年月日、年齢を記して、祭壇に安置します。これは、回向のためと、参列者に法名などを披露するためのならわしといえます。
したがって位牌そのものを、礼拝の対象にしたり、死者の霊が宿っているなどと考え、それに執着するのは誤りです。
位牌はけっして本尊のような信仰の対象物ではなく、位牌を拝んだからといって、死者の霊を慰めることができるというものではありません。
世間の多くの人々が白木の位牌を、のちに金箔などの位牌に改め、その位牌を守ることがいかにも尊い大事な意味を持っているように考えていますが、これも本来の死者の成仏、死者に対する回向、供養とは何の相関関係もないことなのです。
真実の死者に対する供養のためには、なによりも一切の人々を救済成仏させうる力と働きと法門の備わった本門の本尊を安置し、本門の題目を唱えて、凡身(ぼんしん)を仏身へ、生死を涅槃(ねはん)へと導くことに尽きるのです。
日蓮大聖人は、
「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょうとくやく)有るべき時なり。されば此の題目には余事を交へば僻事(ひがごと)なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」(御講聞書・)
とも、また、
「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事)
と説かれています。
父母の成仏や、我が身の成仏を願い、一家の幸せを築くためには、一閻浮提(いちえんぶだい)第一の本尊を持ち、その御本尊に整足する成仏の種子たる南無妙法蓮華経の本門の題目を唱える以外には絶対にありえないのです。
したがって位牌も塔婆も、この本門の本尊のもとにあって、しかも題目をしたためてこそ、死者の当体を回向する十界互具(じっかいごぐ)一念三千(いちねんさんぜん)の法門の原理が具わるのです。
梵字(ぼんじ)や新寂(しんじゃく)・空(くう)などの字が刻まれた他宗の位牌や塔婆を建てることは、仏の本意にもとづく供養の仕方ではありませんから、先祖のためには、かえってあだとなり、実際には先祖を苦しめ正法不信の罪過を重ねる結果
となってしまうのです。
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12. |
信仰の自由は憲法でも保障されているのだから、なにを信じてもよいはずだ |
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日本国憲法の第二十条に、
「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」 と、明確に信教の自由が保障されています。
この条目は、かって古代、中世より近世にいたる長い国家権力による、宗教統制の歴史の反省から、信教の自由が国民の一人ひとりに始めて保障されたものです。
朝廷による宗教への保護と規制、また、江戸幕府の寺請制度と転宗の禁制、近代国家主義下の神道の強制などの歴史を経て、今こそ自由にみずからの意志で宗教を選び、弾圧、迫害の恐れもなく、堂々と信仰ができる時代となったのです。
しかし、ここで私たちが注意しなくてはならないことは、どのような信仰を持とうとも、たしかに法律の上では自由を保障される時代を迎えたとはいえ、信教
の自由の意味を単に、宗教の正邪、善悪を無視して、何をどう信じてもいいと、安易にとらえてはならないということです。
信教の自由は、個人個人が自分の意志で、宗教の正邪・浅深を判断し、より正しく勝れたものを選び取る権利を持つということであり、その権利の行使には、それを正しく役立てていく、主権者としての責任もあるのです。
法律の上では宗派の持つ教義の正邪の判断を下し、規制することはできませんが、実際に宗教を選ぶという時には、一人ひとりが正邪を厳しく判定して、唯一の正法を選ぶことが肝要です。
信教に限らず、尊い自由の保障を受けた私たちは、この自由の基本的な権利を積極的に生かし、自らの責任において、立派にその恩恵を行使していく意志を持たなくてはなりません。
せっかく憲法で保障された信教の自由を、放逸(わがまま)の意味に曲解するのは、あまりにも無責任に過ぎます。
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13. |
信仰は必要なときだけすればよいのではないか |
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〝信仰を必要とする時”とは、どのような時を指すのでしょうか。苦境に立ってわらにもすがりたくなる時なのでしょうか。それとも慣例的に神社仏閣に参詣す
る正月や盆、彼岸を指すのでしょうか。あるいは冠婚葬祭の時でしょうか。または人生のなかで老境に至った時という意味でしょうか。
こうしてみると、“信仰を必要とする時”といっても、受けとり方によって意味がまったく異りますから、一部分のみをとらえて、そのよし悪しを論ずること
はできませんが、いま質問の内容について、わかりやすく説明するために、“信仰をしなくともよい時”があるかどうかを考えてみましょう。
そのためには、まず信仰にどのような意義があるかを知る必要があります。
信仰の意義として大要次の三点が挙げられます。
第一に正しい宗教は、人間の生命を含む時間空間を超えた宇宙法界の真理を悟った本仏が、私たち衆生に対して人間のもっとも大切な根本の道を教え示されたものなのです。
それはあたかも人生という草木を生育している大地のようなものであり、人間という電車を幸せに向って快適に走らせるためのレールのようなものです。
私たちの人生は老いも若きも平等に時々刻々と過ぎ去って行きます。誰もが毎日毎日が、生きた草木であり、走りつつある電車なのです。はたして生きた草木にとって大地がなくてもよい時があるのでしょうか。
また走りつつある電車にレールがなくてもよい時があるのでしょうか。宗教とは人間の根本となる教えということであり、宗教のない人生は人間としての根本の指針を欠落した、さまよえる人生というべきなのです。
第二に正しい宗教を信ずることは、成仏という人間としてもっとも崇高な境界を目標として修行することです。
成仏とは、個々の生命に仏の力と智慧を涌現させ、何ものにも崩れることのない絶対的に安穏で自在の境地を築くことであり、この高い目的地に至るためには、たゆまぬ
努力と精進が必要です。
どんな世界でも、高い目標を目指し、ひとつの道を極めるためには、正しい指導とたゆまぬ
修行鍛錬がなければならないことはいうまでもありません。思いついた時、気が向いた時だけ一時的に信仰するというのは、学生が気が向いた時だけ学校に行くということと同じであり、真の目的をなしとげることはできません。
第三に正しい宗教とは人生の苦悩を根本的に解決するためのものであり、これを実践(信仰)すれば自ずと苦悩を乗り越える勇気と智慧などの生命力が備わるのです。
それのみならず正法を信ずることによって、日常生活が仏天の加護を受けることも厳然たる事実です。自分の将来に対する不安や性格的な悩み、さらには家族や職場での問題など、誰もが多くの解決すべき難問や悩みを抱えながら生きているのではないでしょうか。
また明日どころか一時間さきに何が起きるかわからない私たちは、自分の人生がいつ、どこで幕を閉じるかもわからないのです。“必要な時が来れば信仰する”などと言って、今日一日を自分勝手な思いつきで過ごすことは、かけがいのない人生の時間を無駄
にしているといわざるをえません。
あなたにとって“信仰が必要な時”、それはいまを置いてないのです。 |
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14. |
歴史のある有名な神社やお寺の方がありがたいと思うが |
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たしかに年月を経た建物や、静かな庭園のたたずまいには、いかにも心をなごませる落ち着いた雰囲気があります。
しかし、よくよく考えてみなければならないことは、宗教の本来の役割は物見遊山や観光のためではなく、民衆を法によって救うことにあるということです。
歴史的に有名であったり、大ぜいの観光客が訪れるということと、実際にその寺院が人々の救済に役立っているか、また参詣者に功徳を与えているかということとは別
の問題なのです。
昔の人の川柳(せんりゅう)に「大仏は見る物にして尊ばず」という一句がありますように、奈良の大仏を見に行く人や、見上げてその大きさに感心する人はあっても、心から信じて礼拝合掌する人はいないものです。
信仰心をもって行くというよりは、観光のために訪れるというのが本心でしょう。
古都の神社や寺々は、もはや宗教本来の目的を失い、拝観料などの観光による財源で建物を維持することに窮々としているというのが現状です。
そのほか、正月や縁日に大ぜいの参詣者でにぎわう有名な寺社も、宗旨の根本である本尊と教義を調べてみると、まったく根拠のない本尊であったり、仮りの
教えであるなど、今日の人々の救済になんら役立つものではなく、むしろ正法流布のさまたげとなっているのです。
ところが宗教の正邪を判断できない人々は、開運・交通安全・商売繁盛・厄除けなどの宣伝文句にさそわれ、これら有害無益の寺社におしかけ、自ら悪道の原因を積み重ねているのです。
日蓮大聖人は、
「汝只正理を以て前(さき)とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ。」(聖愚問答抄)
と説かれているように、正しい本尊と、勝れた教法によって、民衆救済の実をあげていくところに宗教の本質があるのであって、ただ歴史が古い、名が通
っている、多くの参詣者でにぎわっているということをもって、その寺社を尊んだり勝れていると考えてはならないのです。
歴史的な建物や、庭園・遺跡などには、それなりの価値はあるのでしょうが、人々を救済するという宗教本来の目的から見れば、これら有名な寺社にはなんら
の価値もないばかりか、むしろ人生の苦悩の根源となる悪法と、社会をむしばむ害毒のみがうずまいていることを知るべきです。 |
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15. |
邪宗という呼び方が気に入らない |
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邪宗という言葉は、日蓮正宗の人が、やみくもに他宗を攻撃するために勝手に使っているのではありません。
釈尊は法華経に、
「正直に方便を捨てて但無上道(むじょうどう)を説く」(方便品第二・開結124)
と、四十余年にわたって説き続けてきた方便の経経を捨てることを説き、これ以後に説示する法華経こそ最高唯一の無上道であると言われています。
また方便の経経に執着していた弟子の舎利弗(しゃりほつ)は自ら、
「世尊我が心を知しめて、邪を抜き涅槃を説きたまいしかば、我れ悉く邪見を除いて空法(くうほう)に於いて証を得たり」(譬喩品第三)
と述懐していますが、ここにも低級な教えによる考えを「邪見」と称しています。
また、日蓮大聖人は末法の教主として、
「正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てヽ、正直に正法正師の正義を信ずる」(当体義抄)
ことが、もっとも大切であると教えています。
これらのことからも、邪宗・邪法などの言葉は仏の経説にしたがって使用していることがわかると思います。
ではなぜ他の宗派に対して、攻撃的なしかも刺激の強い邪宗という呼び方をするのかといいますと、個人の苦しみや社会の不幸はすべて邪まな宗教が元凶となっているからであり、言いかえると誤った宗教、低劣な教えがこの世の不幸のたねだからです。
昭和20年に広島市と長崎市に投下された原爆は一瞬のうちに何十万人という市民、それもなんの罪もない子供や老人まで無差別に殺戮しました。
いま私たちが、核兵器の行使が悪魔の所業であると叫び、この憎むべき不幸を二度とくり返してはならないと訴えるのは当然でしょう。そしてその
不幸の原因が戦争であり、戦争は人間社会の誤った思想によって誘発されたことを考えますと、誤った思想が何十万人、いな世界大戦で戦死した人を含めると何
百万人、何千万人の命を奪ったことになるのです。
このような殺人思想に対して、邪教・魔説と指弾することは言いすぎでしょうか。失礼に当たるから控えるべきなのでしょうか。
涅槃経(ねはんぎょう)に、
「悪象のために殺されては三趣に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る」
と説かれています。この意味は災害や事故によって命を失っても地獄・餓鬼(がき)・畜生というもっとも苦しむ状態にはならないが、誤った教えを信ずるものは死して後に必ず三悪道に墜ちて永劫に苦しみ続けるということです。
一切の不幸の元凶となる誤った宗教は、あたかも覚醒剤や麻薬のように、本人も気付かないまま、いつしか次第に身も心もむしばみ人生を狂わせていくのです。
正しい仏法に目醒めた私たちが、誤った宗教を不幸の根源であると破折(はしゃく)し、邪宗と称することは、悪法に対する憤(いか)りであり、いまなお知らずに毒を飲んでいる人に対する警告の表れでもあるのです。
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