【生長の家】〝珍説ばかり混ぜた典型的なデパート宗教〟
【1. 低能なビジネス思想〝本を読めば病気が治る〟】
「わたしが思いますのに月刊の『生長の家』を本当に心読してくだされば、ほとんどどんな病気でも治ります」(生命の実相 第一巻)
もっと極端なのは、「読めば治る」を神の啓示としていること。例えば、「生長の家誌を読み、真理を知るだけで遠くにいる人の病気も治る」と神が言ったとなれば、それだけで病人は寄ってくる。
その〝治る〟とする根拠を検証すると、「人間は完全無欠な神の子であり、神が病気を造るわけはない。本来肉体もないのだから病気もない。もし、あると思うならば、それは妄想であり、 無明 である。無明が病気を生み、そして薬は病気ありと信ずる悪念の所産である。肉体はない、病気はないと強く念ずるところの神想観が病気を治す」という説明。これを「メタフィジカル・ヒーリング(超物質的療法)」と言っている。 これらは単なる〝オマジナイ〟からの発想、一昔前の親たちが「痛いところ痛いところ飛んでいけー」と子供に暗示をかけていた=痛いと思うから痛いんだという発想。創始者・雅春が 大本教 で 学んだ心霊療法に、東西のいろいろな理論を付加して複雑化し、しかも神秘的理論に見せかけて世人の目を集めたにすぎず、その目的はただ本を売るためである。大本教では、布教の手段として手紙を活用、文才のあった雅春がそれをマネして、結婚間もない自分たちの経済苦を立て直すために始めたのが、いわゆるこの出版事業であった。病気治しは、その本「生長の家」〈後の「生命の実相」〉を売るために考え出した手段とみて間違いない。 医学者・中村 古峡 氏は、雅春のことを誇大妄想症と言ってる。また、氏の著「迷信に陥るまで」では次のようにも書かれている。
「或る有力な新聞記者が、谷口雅春にぶつかって、『果たして君の本さえ読めば、君が大袈裟に
吹聴
している如く、病気が実際になほるのかい』と問うたところ、彼は頭を
掻
きながら、『いや、あれは単に本を売り出すための方便に過ぎない。本を多く売る為には、先ず多くの人々を集めねばならぬ。多くの人々を集める為には、何等かの方便を用いなければならぬ。』と答へたさうな」
洪水のような本の出版から始めた「幸福の科学」は、これをマネしたのである。
【2.自己満足の 神想観】 「神想観」とはひとことでいえば自己暗示のこと。理論的瞑想法・論理的思念法等と、いかめしい説明を加えているが、要は自己暗示によって晴れぬ気持ちを整理したり、病気や災難までをも解決しようとするのが神想観である。
「『風邪を引く』と思うならば、その
念
いが成就して風邪を引くのは当然のことであります。だからこれとは反対に、くしゃみをする瞬間に『風邪が出た』と思ったら、『風邪を引く』わけのものではありません」(生長の家 第二巻)
何ともバカバカしい限り、一事が万事、このような内容である。生長の家では、神想観が実践修行の一つになっていて、信者は毎朝勤める。まずその基本型は
「神の無限の知恵の海……愛の海……生命の海……供給の海……悦びの海……「調和の海」
の内容を3回ずつ念ずることから始める。また、観音になりきる神想観では、次のように3回念じる。
「物質はない……肉体はない……心もない……」
物心両面を否定したのでは、どこから見ても邪論としか言いようがない。
創始者・谷口雅春は、「生死を越える道」の著の中で、
「現象世界がどんなにみえてをろうとも、目をつむって見ないやうにして……」
と、神想観の本音を言っている(これまた抱腹絶倒)。次に、
「心に健康を思へば健康を生じ、心に病を思えば病を生ず」(甘露の法雨)
の言葉からは、人間の幸不幸にかかわる現象は、すべて一人ひとりの心如何によるという意味が察せられ、次のような発言も出くる。
「剣でもピストルの弾丸でも外からわれわれにうち込んでくるものだと思ったら、それこそ大まちがいで、われわれの心の内にそれを引き寄せる磁石があって……引き寄せるのであります」(生命の実相 第一巻)
これでは殺人も、強盗も、放火も、まき込まれた事故も皆んな自分が望んだことになり、責任は自分。結果的には罪人の方が善人になってしまう。
「病気にかからぬようにするには、……病気の説明の本を読まず、治療法や売薬の広告を読まないようにしなければならない」(生命の実相 第一巻)
「バイ菌も微生物で、生きている限りそれには神の生命が宿っているから、神の子であります」(生死を越える道)
医学がすべてではないことは確かだが、予防医学を研究してきたからこそ伝染病も少なくなり、またバイ菌と闘う医療設備が発達したからこそ今日の日本が長寿国になれたはずでである。教団は医学に真っ向から逆らう教えである。「人間・神の子」と称して、完全・万能だとする考えは、高慢無恥の心を助長させる=雅春がかかわった禅思想の傲慢さでもあろう。
現実の世界から目をそむけ「悪事や災難は単なる妄想にすぎない」と、虚と実を逆転させる教え=病気は本来的にはないのだと言い切っては、医療を否定するところの社会問題にもつながる。故に神想観は危険な邪の行為だと言える。 【3.自語相違〝一切のものと和解せよ〟は外道混合】 「一切のものと和解せよ」とは、創始者・雅春がうけた神示として、生長の家の基本的教えになっている。
「天地一切のものとの和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することは出来ぬ。汝が何物かに傷つけられたり
黴菌
や悪霊に
冒
されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ」(生命の実相 第一巻)
この世の生物が皆仲良くし、天地一切が共存繁栄することを善と考え、それを和解と表現したまでは良いが、拡大解釈しすぎて大変な邪義に
陥
ったのである。
例えば、饅頭や砂糖菓子を平気で食べながら糖尿病を治した話。つまり「糖分を敵のように思っていたから糖分が自分を害したのだ。ところが、全て兄弟と思 いながら饅頭や砂糖菓子を食べるようになってからは、その心が糖分に通じて自分を害さなくなり、かえって糖尿病が治った」という。 その外、家ダニと仲良くしただの、寄生虫のサナダ虫と仲良くしただのという話が山ほどある。
「『毛虫よ、あなたも神の子であって、人間に必要なラミー麻を食ひあらすようには出来ていないのである』と一心に念じて、天地一切のものに、そして毛虫にも和解なさった訳であります」(甘露の法雨 解釈)
今までは毛嫌いしていたか毛虫に害されていたが、和解してからは食い荒らさなくなったという。
和解という認識の底に、生長の家では「実相」と「現象」との関係=「人間と万物を神の子思想で統一し、自然界ならば法則、世界観ならば霊的なも の、人間ならば心を実体として真なるもの」という理解をしている。五官では認識できないそれを、あえて「実相」と呼び、五官で確認できる「現象」を〝仮〟ま たは〝虚〟と呼んでいる。仏教の空や仮の理論を唯心にもとづくクリスチャン・サイエンス(キリスト教の真理)にミックスさせた論といえる。
「『法華経』の如来寿量品の自我偈に『我が浄土(実相)を
壊
(=
毀
?)せざるに、而も衆(現象)は焼け尽きて、諸々の憂怖充満せりと見る』とあるのがそれであります」(甘露の法雨 解釈)
「仏国土(浄土)は不壊の常住だから実相であり、これに対し衆生は焼尽し無常であるから現象である」との意であるが、なぜ浄土が実相で、衆生が現象なのか。現象は不壊か焼尽であって、衆(生)ではおかしい。浄土を実相とするのもおかしな話で、常住不変的なものを実相、有為転変する無常の姿を現象と表現しているようだが、法華経の娑婆即寂光の理からすれば、無常も常住も、いずれも実相である。法華経では、諸法の実相、あるいは中道の実相とは言うが現象に対する形での実相の文字等は無い=あらゆる現象はすべて実相だからである。
故に「一切のものと和解する理論だての実相と現象」これも外道の邪義である。 【4.不純な開教動機】 新興宗教の場合、開教の不純性は、どの教団にも見られるが生長の家の不純性は、創始者・谷口雅春の自伝から拾うことができる。
「わたしは宗教を製造するつもりで始めたのではなく、ただ会社勤務の片手間に書いた雑誌が奇跡を演じはじめたにすぎない」(生命の実相 第二十巻)
他の本にはこうあります。
「生長の家といふもの、そのものが、もともと宗教として出発したものではないのであります」(甘露の法雨 解釈)
つまり、人の幸せを願って開教したものではないということです。つまらないこの世に自分を産んだ親を
呪
うような親不孝、また、快楽主義を第一信条とする唯物思想の思想経歴をもつ雅春が、その考えを180度変換し、親孝行と唯心的
耽美
主義を
称
えて開教をしたのである。また青年期、遊女高尾との関係が、後に病気治し宗教となった決定的原因であるといわれている。
雅春は、早稲田大学中退後、大阪のある紡績会社へ勤めますが、その時会社の上司の
姪
と
色街
の遊女との二人を愛します。遊女から性病を移されたことに
悶
え、それが今度は上司の姪にうつってはしまいかと悩み続け、ついに
「そのころ神経衰弱にかかった」(生命の実相 第十九巻)
「わたしが恐れていたのは、あの病気が彼女に感染していなかっただろうかということであった」(生命の実相 第十九巻)
「キリスト教の奇跡を思い出して民間の心霊術を 漁 りだした。 遠隔 にいて彼女にも誰にも知らせずに彼女の病気を完全に治してしまう方法を発見しようと努力した」(生命の実相 第十九巻)
姑息
な方法で解決しようとしたわけである。
「三界は唯心の所現であって、心外に別に存在はない」(生命の実相 第十九巻)
「病気は心によって起こるのであって、また心によって破壊されうると知って、わたしは彼女の病気の治るために祈りかつ遠隔治療した」(生命の実相 第十九巻)
こうして病気治しの宗教が誕生=いかにも不純である。
次は、生長の家とお稲荷との関係を述べる。本:すなわち「生長の家」誌が一冊でも多く売れますようにと祈願したことに始まる。
「昭和五年三月、谷口雅春先生が、『生長の家』誌を創刊された折、谷口輝子先生が近所の婦人にすすめられて、神誌の拡大を祈願されるたびに伏見の稲荷神社より神霊を受けられ……」(魂のふるさと 宇治)
とある。また、教団発行のこの本の「はしがき」には、
「生長の家護法の神たる稲荷大神」
ともあり、出版宗教生長の家にとっては大変な護り神、それがお稲荷というわけである。生長の家の宇治の別格本山とは、この稲荷を
遷座
したものである。
【5.抱腹絶倒の珍説〝病気因果論〟】 「ハイ、と素直に返事をしないから肺病になる」とは天理教の教え、 真光 系でもよく似たことを言うが、その最たるは生長の家である。片寄った唯心思想がこの病気因果論を生んだ。
「肉体は念の影でありますから、治ると思えば治り、疲れると思えば疲れ……」(生命の実相 第四巻)
「心が物質を支配して、心の働きによって健康ともなり、病気ともなるのであります」(生死を越える道)
「重い病気にかかるのも、重傷を負うのも、また、治るのも、その人の
念
い
如何
による」との意味で、全てをそれで片付けようとする低能な教えである。
創始者・雅春は病気との因果関係を次のように書いている。
「人に痛いことを言ふ人、キューと突く様な
辛辣
なことを言うやうな心の傾向のある人は、キューと突かれる、即ち注射をされたりしなければならぬ種類の病気にかかるわけであります」
「盲腸炎を起こす様になる心の人は、みな『切りつける心』を起こしているから、その心の影として自分が『切られる』ということになるのです」 「 脹 れるエネルギーの行き場がないので、どこか他の所を脹らさねばならぬと云うことになるのです。そこでどこか他の肉体のところを脹らせるために、それが『おでき』になったり、小さいのではニキビになっ たり、或ひは子宮筋腫、胃癌なんて脹れるものになって、心のふくれる力が姿をあらはして消えるのであります」(いずれも生死を越える道) 次に挙げるのは「親和の法則」
「若しあなたが、自動車や汽車の衝突事故で傷つくまいと思ったならば、自分が他の人たちと衝突する心や、人を傷つける心をなくすること……」(生死を越える道)
勝手な発言をして人を傷つけたり、いつも脹れっ面
をして人にいい感じを与えない人は、大いに反省も必要ではあるが、このような愚論、邪義が人を救う教えではない。
「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(曽谷入道殿御返事)
と日蓮大聖人は御指南されている。私共の日常生活は、ともすると三毒(貪・瞋・癡)四悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)の心が中心になりがちである。そこで、迷いの根本となる自分の心を絶対視してはいけない、むしろその心を善導する師となるべきだ、との御指南である。ともあれ、仏教は唯物にも唯心にも片寄らない、中道思想が仏法の正しい哲理である。 |