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【本門佛立宗】 〝勝手な自作の本尊で幼稚な現世利益〟    


【1.佛立講〜佛立宗まで〝権力と忖度〟で変貌】

 清風は、明治23(1890)年7月、大阪に向う途中、74四歳で急逝し、後継者には、御牧日聞が就いた。その後、本山妙蓮寺は佛立講に対して本尊書写の禁止や読誦謗法の主張の撤回を迫り、教団は苦境に立たされた。しかし、明治31(1898)年4月、妙蓮寺との対立を不利と見た佛立講は、講員による妙蓮寺団体参詣を実施して協調路線をとり、関係修復を図った。これによって両者は互いの目論見を持って歩み寄り、一気に和融共存の道を進んでいった。
 明治32(1899)年、本門法華宗は故・清風に対して「日扇上人」の諡号を送り、明治37(1904)年5月には、二世の御牧日聞が上総の鷲山寺貫主に就任、半年後に管長となり、6年後には京都妙蓮寺の貫主に迎えられ、三世の野原日隨も妙蓮寺貫主となり、同45(1912)年、本門法華宗は、再び日扇に対して大僧正位を追贈した。
 このように本門法華宗が佛立講の組織力に依存する一方で、佛立講は着実に本門法華宗内での勢力を広げ、本来の在家主義から僧侶主導へと、大きな変貌を遂げていった。
 この頃から、変質した佛立講に対し、在家組織を目指す一部僧俗は反発して、次々に教団を離れて分派していった。その主なるものは、次の通りである。

・「大日本獅子吼教会」大正2(1913)年、大塚日現が創立(法華宗本門流所属)
・「在家日蓮宗浄風会」大正5(1916)年、多羅尾清車が創立(東京都文京区千駄木)
・「本門経王宗」大正11(1922)年、麻生日宏が創立(東京都調布市緑ヶ丘本山・日宏寺)
・「日蓮主義佛立講」昭和3(1928)年、橋本日種が創立(愛知県春日井市松新町)

   大正8(1919)年、寺院と僧侶を持つようになった佛立講は積極的に僧侶を養成して自立を目指し、教線を拡大していった。その結果、昭和9(1934)年、宗内で「佛立講特別教区制」が実施され、佛立講は講有を中心とした自治権を獲得した。
 そして終戦後の昭和22(1947)年3月15日、本門法華宗(旧八品派)から独立して「本門佛立宗」と改称し、昭和27(1952)年、宗教法人を設立して現在に至っている

【2.幼稚な現世利益とイベント】

 日扇は「法の浅深・勝劣・邪正は現証利益の有無に依って自ら知るなり」と述べ、教学や法門は理談に過ぎず、智恵による信仰を嫌った。自ら「佛立宗は無智宗なり」「現証利益こそ事の法門である」と説いて、信仰の目的、正邪の基準、功徳のすべてを現世利益に結びつけたところに、この教団の特徴がある。
 日常信仰活動の特徴としては、毎月の「お講(お講席)」が挙げられる。これは各地域の「組」と呼ばれる信徒のグループが、寺院の出先である信徒宅の拠点 に集まり、法事・祈願・聴聞などを自主的に行うもので、清風が佛立講を開講以来、最も重視してきたものである。佛立宗では「お講」を開催できる信徒は信心強盛とされ、信徒に対し盛んに「お講願主になれるように」と、物心両面の指導をしている。
 また、初信者への指導や病気治し等の手助けをすることを「お助行」と呼び、仏前に「御供水」と呼ぶ水を供えて「御看経(おかんきん:拍子木を打ちなが らの唱題)」の後、「この水を飲めば病気が治る」等、常に現世利益を説き、組織の維持と布教を行っている。
 また、大聖人を高祖大士、日隆を大聖人の後身として門祖、日扇を「開導」と呼んで「三祖」と仰いでいるが、実際には清風が残した3,380余首にのぼる 「教歌」をはじめ、俳句、詩、今様、謡曲、長唄、地唄、いろはがるたに至る、さまざまなものを教えの根本として教化活動に用いている。


【3.宗祖・日蓮大聖人の御本尊を否定し本尊自作】

 日扇の教学は、日扇が本門法華宗の僧として出家してから、還俗、再出家を経て佛立講をはじめた日隆教学中心の前期と、還暦を契機に「要法本尊」を自作し、本門法華宗からの独立を目指して独自の教学を創り上げた後期とに区別できる。その特徴を一言でいえば、日扇と生涯対立関係にあった本門法華宗に対する体制批判から生まれた改革教学であり、既成宗教の難しい教義や信仰を切り捨て、信徒中心の判りやすい教えと信仰を目指した〝新興宗教の先駆〟といえる。
 佛立宗では、宗祖日蓮大聖人の御本尊を「雑乱勧請の広式本尊」と否定し、日扇が自作した「要法本尊」のみを信仰の対象としている。これは日扇が、中央に題目、 その左右に「三箇秘法之中一大秘法」「本門肝心上行所伝」と脇書したものであり、明治10年に還暦を迎えた日扇が、「本尊書写は貫主に限る」などの制約を受けていた本門法華宗からの独立の宣言書ともいえる。
 また、日扇は本門法華宗で行っていた一部読誦に対し、「題目で御布施がとれぬもの故に在家のしらぬ御経よむなり」と批判し、難しい読誦は信徒の信心の妨げになるとして、その翌年に「本門佛立妙講一座」という唱題中心の法要式を発表し、講員に徹底した。
 現在も法要・勤行は、これに従って行われており、要法本尊に向かって拍子木を鳴らしながら題目のみを唱える「口唱専一」を正行とし、これを「事行の題目」と称している。



【4.日扇自作の「要法本尊」は、宗祖日蓮大聖人に違背する大謗法】

 佛立宗では日扇自作の「要法本尊」を本尊と立て、「曼茶羅に十界を顕すことを雑乱勧請・別勧請」といって嫌い、さらに「十界互具の曼茶羅は宗祖の本意ではない」などと妄想主張している。
 しかし、日蓮大聖人が『観心本尊抄』『報恩抄』『日女御前御返事』をはじめ諸御書に明示された正意の御本尊は、十界互具の曼茶羅本尊である。別して『聖人御難事』には、
 「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年 太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給 ふ(中略)余は二十七年なり」
と明示されているとおり、宗祖の出世の御本懐は、弘安2年10月12日御図顕の戒壇の大御本尊であることは明らかである。
 佛立宗が立てる「要法本尊」は、明治10年に本門法華宗から曼茶羅の書写・授与を禁止された日扇が、法華宗からの独立を目指して、自ら一遍主題の左右に文字を並べたものを自作し、これを勝手に「要法本尊」と称したに過ぎない。
 日扇の自作だけに、日蓮大聖人の御書のどこを探しても「要法本尊」という言葉すらなく、大聖人の認められた曼茶羅御本尊とは似ても似つかぬお粗末さである。に 関わらず、かえって宗祖が「日蓮が魂」と仰せられた大曼茶羅を「雑乱勧請の謗法本尊」と下すこと自体、大聖人本意の御本尊を否定する大謗法であると同時に、自 ら門祖と仰ぐ日隆の教えにも敵対する愚論である。


【5.佛立宗の「口唱専一」は日蓮大聖人への背信行為】
 佛立宗では法華経の読誦は謗法であると主張しているが、大聖人は『月水御書』に、
 「されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品 の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ」
と、日々の助行として『方便品』と『寿量品』の読誦を御教示されている。ここの門祖の日隆さえも「日蓮薩埵も又、方便品と寿量品と二の略門修行、之れ有り」(十三問 答抄)と認めている。その経文読誦を謗法と下し、拍子木を鳴らして題目さえ唱えればよしとする佛立宗の「口唱専一」は、本門法華宗の煩雑な一部読誦の修行 を嫌った日扇が、宗祖の実践された正助の二行を勝手に省略し、題目だけにした怠慢行に過ぎない。
 宗祖日蓮大聖人の化儀化法を我見で解釈し、勝手に作った「要法本尊」と「口唱専一」の修行を説く佛立宗は、修行ひとつを見ても師敵対の輩であり、謗法を謗法と恐れぬ日扇が勝手に作った「我立宗」にほかならない。


【6.自ら異流儀を証明する「三祖血脈」のあきれた実態】
 佛立宗では、日蓮‐日隆‐日扇と連なる「三祖血脈」なるものを主張して、宗祖以来の正統を宣伝しているが、その具体的な証拠や説明は何も無いばかりか、現実に大聖人と日隆には百数十年の隔たりがあり、さらに数百年も下った日扇への血脈相承や相伝などあり得るはずもない。
 この実態のどこに、大聖人の血脈が存するというのであろうか。まして大聖人の御本尊を否定し自作本尊など言語道断、さぞかし大聖人はお嘆きであろう。

 


【創 立】
 1957(昭和22)年3月15日
【創始者】長松日扇(清風)
【代表者】第26世日良
【信仰の対象】
 
日扇自筆の要法本尊
【教 典】
妙法蓮華経開結十巻、
日蓮大士遺文、門祖日隆、
開導日扇の著述など
【本 部】
 
宥清寺:京都市上京区御前通一条上ル東竪町110 ---------------------------
 本門佛立宗は、長松日扇(にっせん)(1817~1890)が京都ではじめた在家組織「本門佛立講」を起源とする教団である。
 「本門佛立宗」の宗名は、日扇が『法華初心成仏抄』の「法華経をば仏立宗と云ひ、又は法華宗と云ふ」との文によって、「別にわれと一宗を開くに非ず、仏説のままを宗祖立てさせられて本門佛立宗也」(日扇上人全集)と、名乗ったものである。
 日扇は、もともと八品派(本門法華宗)の僧侶として出家したが、まもなく教団に対する不信から還俗し、後に在家のみによる信仰組織を起こし、独自の本尊や教義を立て、病気なおし等の現世利益中心の布教をすすめ、教線を伸ばしていった。この間、日扇が信仰の変節をするたびに教団に内紛が起こ り分裂し、現在に至っている。
 日扇は、江戸末期の文化14(1817)年に京都で生まれ、幼名は大路仙二郎といい、幼い頃より書画や和歌を学び、雅号を長松清風と称した。
 天保13(1842)年、二五歳のとき、母と死別して出家を志し、29歳のとき、本能寺(本門法華宗)の秀典日雄の教化で入信し、嘉永元(1848)年、32歳のとき、淡路隆泉寺の無著日キ(光編に、曜の右側の文字)を師として出家した。
 しかし、中年での出家を理由に、本興寺にある尼崎檀林への入檀を拒否された清風は、当時の保守的な教団に失望して東山の西行庵に退き、同志と布教生活を送ることとなった。ここでも、清風の布教が周囲の反感を招き、やがて西行庵を追われ、その後も住居を転々とした末、ついに還俗して「禅門清風」と称し、在家の立場で教団の改革を決意した。
 当時、宗内では、信行なき地獄・餓鬼・畜生も成仏できると主張する「皆成派」(本山側)と、成仏は信行を実践できる人界の衆生に限ると反発する「久遠派」(改革派)との論争が激化していた。なかでも高松藩主松平頼儀の庶子である頼該(よりかね)は、全国に講員3,100余名・53の組織を持つといわれた在家組織・高松八品講の中心者として、本山側(本門法華宗)の番神雑乱、葬式仏教化、唱題軽視に対して反発し、刷新運動を展開していた。
 同じ反教団という立場にあった清風と頼該は、互いに共鳴して親交を結び、安政三(1856)年一一月、清風は頼該に招かれて高松に赴き、大いに感化された。そして翌年1月、清風42歳のとき、京都蛸薬師の谷川浅七宅で華洛八品講を起こし「佛立講」と称した。これが、今日の本門佛立宗の起源である。
 

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