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【立正佼成会】 〝霊友会を真似し日蓮大聖人を冒涜する教団〟


【1.かえって法華経の心をころす邪教】
 庭野日敬が霊友会を脱会したきっかけに、法華経の勉強がからんでいたことは、教団概略に述べた通り。諸経の中で、法華経が最も尊いことは判っていたようだが、法華経の説かれた本来の意義までは理解していなかったようである。
 例えば、次のような発言がある。
「ここで誤解してはならないのは、いままで真実でないことをお説きになったというのではない、いままでの説法もすべて真実には違いないのだが、まだ真実の中の真実を『すっかり』出し切ってはいなかったという意味です」(法華経の新しい解釈)

 これは、無量義経の「四十余年未顕真実」の文を解釈した個所だが、無量義経の文の、「四十余年の諸経は ( ずい ) ( ) ( ) の対機説法であり、あくまでも応病与薬の方便説、仏の悟った成仏の法ではない、これから説くところの妙法蓮華が、一切衆生を救うべき真実法である」というのが本来の意味である。その意を受けるからこそ、
 次の『方便品』の文義が (めい)(りょう) となる。

世尊 ( せそん ) 法久 ( ほうひさ ) しうして ( ) ( かなら ) ( まさ ) 眞實 ( しんじつ ) ( ) きたもうべし」「 正直 ( しょうじき ) 方便 ほうべん ) を捨てて ( ただ ) 無上道 ( むじょうどう ) を説く」(法華経開結)

 そしてまた日敬は、 四諦(したい)・十二因縁・六()()(みつ) 等 が、あたかも法華経の根本的教義であるかのように教えている。法華経の序品には確かに四諦等の文字が出てくるが、それはあくまでも声聞には四諦(苦・ 集・滅・道)、縁覚には十二因縁(無明・行・識等)、菩薩には六波羅蜜(布施・持戒等)をというように、仏がそれぞれ機根に応じて救う方法をとってきた過去のいきさつを説明したにすぎない。それを日敬は、仏の本懐、あるいは法華経の根本義といわんばかりに己説を解説している。
「『四諦』『六波羅蜜』というのは、どうしたらわたしたちが日常の生活において直面する苦しみや悩みを根本的に解決して、絶対安穏の境地を得られるかを教えた法門で、釈尊の教えの大きな中心をなすもの」(法華経の新しい解釈)
 とも言っている。

 法華経が純円の実大乗経であることを知っていたならば、四諦等の小乗の教理を法華経に混入させることはなかったはずだが、ともあれ仏法の不純性を生む在家教団の宿命ともいえる。
『無量義経』には次のようにある。
( いま ) だ六波羅蜜を修行することを得ずと ( いえど ) も、六波羅蜜 自然 ( じねん ) 在前 ( ざいぜん ) し」(法華経開結)

 これを日蓮大聖人は『観心本尊抄』に
「文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば 自然 ( じねん ) に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」
 と明確にご教示されている。

 釈尊の出世の本懐といわれる法華経は、十界互具・一念三千・二乗と悪人・女人の成仏義、あるいは仏の三世常住を顕わしたものであり、更には「権門の理」を 破して妙法広布をするところに、その本意がある。佼成会の教えにはそれらの内容が全く無く、かえって法華経の理をくつがえす内容ばかりが目立つ。次の発言もその一例。
「地獄界にいるものにも、修羅界にいるものにも仏性の種はほんのチョッピリながらあるのであって……」(法華経の新しい解釈)

「チョッピリある」とはおよそ不適当な表現である。

( しつ ) ( ) ( ぶっ ) ( しょう ) の仏語を疑い、十界互具の理を壊す誤った解釈である。
 また、次のような仏の本迹論をふりまわす個所もある。
「この宇宙ができてからこのかた、ずっと仏は宇宙のどこにも満ち満ちておられるわけです。そういう意味の仏を『本仏』といいます。
その『本仏』が必要あって人間の形をとってこの世に出現されたのが『迹仏』としての釈尊です。……(略)ですから、『本仏』『迹仏』どちらが尊いとも、大切だとも、区別することはできないわけです」(法華経の新しい解釈)

 非常に浅はかな理解の仕方である。
  始成正覚(しじょうしょうかく) 久遠実成 ( くおんじつじょう ) の仏の本迹は天地 雲泥 ( うんでい ) の相違があることを知るべきある。
 伝教大師は法華秀句に
雖讃法華経 ( すいさんほけきょう ) 還死法華心 ( げんしほっけしん ) 」(法華経を ( さん ) すと ( いえど ) ( かえ ) って法華の心を ( ころ ) す)
と言っている。法華経を褒めているようで、かえって法華経の本意を殺すと言う意味であり、まさに佼成会の日敬のことである。

【2.設立以来、悉く本尊に迷う】
 佼成会は、霊友会の祖霊信仰を受け継いだ教団だから、独自の本尊はもともと無い。
今でこそ「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を一応の礼拝対象と統一しているが、常々の観念としては雑多なものを本尊としている。佼成会が今使ってる経本の観念文には、釈迦の外に次のようなメンバーが載っている=多宝如来、十方分身三世の諸仏、上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩・文殊・ 普賢・ 弥勒(みろく) 等の菩薩、高祖日蓮大菩薩、末法鎮守七面大明神、諸天善神等。

 本尊とは「根 本尊(・・)崇」(根本から(とうと)(あが) める)の略であり、日蓮大聖人は、
「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄)

 と御指南である。尊いものがたくさんあるように見えるのは、取りも直さず迷っている証拠。なお、松野純孝編による「新宗教辞典」には、佼成会の本尊について、次のように解説している。
「霊友会教団から独立したころは、霊友会教団当時から祀っていた『お曼荼羅』と、毘沙門天王を守護神として勧請。十五年から中央に『南無妙法蓮華経』、 右に『天壌無窮』、左に『異体同心』。十七年から、毘沙門天王に代えて、大日如来を守護神に。二十年十月から、日蓮によって図顕された大曼荼羅であった

 毘沙門天から大日如来まで (まつ) った佼成会の本尊雑乱はどこからきているかというと、副会長だった長沼妙佼の神がかりによるものと思われる。
「霊友会では、降神して 啓示 ( けいじ ) を聞くことを重要な行としていた。……(略)下がってくる〈神〉は、不動明王、八幡大菩薩、毘沙門天、七面大明神、日蓮大菩薩が主だった」
 と日敬は自伝に書いている。要するに、本尊のない教団から分派し、本尊に迷う宗派に関係してきた佼成会にまともな本尊が無いのはもっともな道理である。


【3.佼成会の〝真実顕現は後付けの妄説
 立正佼成会がいう真実顕現とは、昭和33年に「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を像造し、会の本尊として内外に発表したことである。実は昭和20年にこれを一度発表、ところがその時は会員に 浸透 ( しんとう ) しなかったため、今回の再発表となったと庭野日敬は自伝に書いている。
 日敬が釈迦本尊を決めたことには日敬なりの ( もく ) ( ) ( ) があったた。それは、一つは創立以来の教団運営を方便であったとし、その方便の時代は終わったとすること、二には内紛により危機に ( ひん ) した組織の再編、そして三には教義の確立、の三つの理由であったとされる。

 まず、第一の方便の時代とはいかなる意味かを検証してみる。日敬は方便という言葉を、次のような意味に使っている。
「発足したばかりの宗教団体にとって、最初から抽象的な理想だけを説いてはおられない
庶民大衆の切実な展望に応える〈方便〉の教えから入らざるをえなかった。それで取りあえず霊友会の信仰活動を ( とう ) ( しゅう ) して、〈病気治し〉を主たる活動としたのであった」(自伝)

 すなわち、九字を切っての病気治し、あるいは九星占いや姓名判断等をして人を集めてきたことが日敬の言う方便、加えて、長沼妙佼の霊能的神がかりも方便の一つであった。方便がこのような迷信邪信だから、それによって開かれる真実なるものも、釈迦立像などという 堕獄(だごく) 本尊となったのも当然である。

 次に第二の理由である組織内紛については、昭和31年1月頃、土地を不法に買い占めたとか、寄付を信者に強要した等の (とが) で、日敬は国会で証人喚問を受けた事はあまりに有名。また、同年8月には、教団の幹部たちが妙佼を教祖に仕立て、日敬を上層部から締め出そうとした事件が起きた。これらの事件により、佼成会の組織はかなり 動揺(どうよう) し、それを立て直すことが第二の理由であった。

 第三の理由である教義の確立とは、教団創立以来、占いや姓名判断で会員は多数集めたものの、さしたる教義もない状態では世間体も悪かったため、そこで法華経を教義の中心としつつ、大衆に 迎合(げいごう) するために、本尊を釈迦像とすることが得策と思った日敬はそれまでの曼荼羅を捨てて釈迦像を拝む形態に路線変更したのである。
 それは彼の
「私は昭和三十三年一月五日の『佼成新聞』に『久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊こそ本会の本尊である』と宣言し、いわゆる真実顕現の第一声としたのであった」(自伝)
「今までの交成会(ママ)も、創立から二十年間は、いわば方便の時代だった。その二十年の修行を経て、今、初めて真のご本尊を勧請できる時代が来た、と言えるのだ」
(三十年の歩み)
との言からも明らかである。
 日敬は発足以来の20年間を「方便の時代だった」と弁明し、釈迦立像を本尊としたことを、おこがましくも「釈尊が四十余年間 調機調養 ( じょうきじょうよう ) を経て真実の法華経を説いた姿と全く同じである」と述べたもので、かかる末法弘通の 法体(ほったい)と付嘱を無視した増上慢の邪義には、釈尊もさぞかしお(なげ) きのことある。


【4.日蓮大聖人を悪しく敬う亡国の邪義】
 日敬が大聖人をどのように見ていたかは、次の両文をみれば判る。
「日蓮聖人は考えられました。禅も、念仏も、その他の宗派も、それぞれいい教えには違いないけれども、いずれも仏の教えを一点だけ集中的に見つめているだけで、円熟した完全さがない」(仏教のいのち法華経)
「宗派意識というものを一応ご破算にして、お釈迦様のご真意を行ずる事が真の仏教者であると叫ばれたものと私どもは解釈いたしておるのであります」
(自伝)

 日敬には、日蓮大聖人の大 獅子吼(ししく) たる破邪顕正の
「四箇の格言(念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊)」
の意義が全く理解されていない。

 折伏精神のかけらもない日敬は、また、次のような発言もしている。
「『法華経』が最高の教えであることは間違いないのですけれども、それを讃えるためにほかの経典をけなしたりするのは、心得違いといわなければなりません」(法華経の新しい解釈)

 宗祖・日蓮大聖人の
 「謗法を責めずして成仏を願わば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」
 の御金言を全く理解しないどころか却って蔑んでいるのある。

 次の一文は更に許しがたいもの。
「日蓮大聖人は、久遠実成の本師釈迦牟尼仏(本仏)を中心とされた教学を ( ) てられたものと、私どもは信じておるものであります」(自伝)
 日蓮大聖人を、完全に 冒涜 ( ぼうとく ) する不相伝の邪義そのものである。

 日蓮大聖人の『本尊問答抄』の一節には、
「問うて云はく、末代 悪世 ( あくせ ) の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし」
とある。

 そして更に、日敬は日蓮正宗の大御本尊(日蓮大聖人の出世の本懐)を (けな) して次のようにも言っている。
「〈物〉に帰依し、〈物〉を礼拝し、〈物〉に祈願してはなりません」(法華経三部経5)
「いまだに、楠の板ぎれなどを拝み、依存する人々があるようですが、そういう〈物〉に依存するくらいならば、宗教などはスッパリと投げ捨てた方が賢明なのです」
(法華経三部経5)
 と、言語道断である。
 日蓮大聖人の〝出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊を物呼ばわり
しておきながら、佼成会の大聖堂に ( まつ ) る釈迦立像は完全に物です。もし、釈迦像は物ではなく、大曼荼羅だけは物だというなら、それは全く負け惜しみ、次元の低い大謗法の偏見という外ない。

 大聖人は『観心本尊抄』に
「草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に ( たの ) ( たてまつ ) ること ( ) ( やく ) なり」
と仰せである。依正不二・色心不二の大聖人の仏法の深義は日敬には理解すべくもないようだ。


【創 立】
 1938(昭和13)年3月5日
【創始者】庭野日敬
【代表者】庭野日鑛
【信仰の対象】
 
久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊
【教 典】
 法華経三部経
【本 部】
 
東京都杉並区和田2丁目11-1

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 霊友会から分派した教団。昭和12年、庭野 日敬(にっきょう)(鹿蔵)を会長に長沼妙佼(みょうこう) (マサ)を副会長として、霊友会を脱会したわずか30人余りの人数で結成した。当初の教団名は「大日本立正交成会」といい、東京都中野にあった会長・庭野日敬の自宅を本部として発足した。霊友会と同じ在家教団である。
 今では東京都杉並区和田に本部を構え、その敷地内には大聖堂と称する礼拝所をはじめ、学校、出版社、劇場、研修所、病院等が (のき) を並べている。
 機関紙「佼成新聞」は、月4回:160部で、月刊誌「佼成」は164万部、その外にも種々の出版物を発行している。
 庭野日敬が新訳したという法華経三部経を所依の教義書とし、 四諦(したい)法門、十二因縁、六()()(みつ) ・八正道等を基本的教えとしている。
 会員になると、総戒名をまつることから始め、経文(法華経の各品)の一部分を抜き出し、訓読(「 我仏(われほとけ)()てより(このかた) ……」の読み方)の方法で、朝夕勤行をする。それを「ご供養」といい、本尊といわれるものは、かなりの幹部にならなければもらえない。
 グループの座談会を「法座」といい、会員はそこを信仰修練の場としてる。幹部の指導を受けることを「 (むす)んでもらう」といい、また、病気にかかったり、災難にあったりするのは仏の慈悲のムチであるから、有り難い試練として自分の修行に()り入れていく、これを「お(さと) り」と教えている。
 昭和45年頃、会員は約95万人位だったが、平成5年には652万人(宗教年鑑より)、新興宗教では創価学会に次ぐ第二の勢力である。
 佼成会の主たる内容は霊友会譲りだが、もう一つ奥に、霊友会の元となった西田利蔵の (ぶっ)(しょ)()(ねん)(かい) (関口嘉一の会とは異なる)の尾を引いている。西田利蔵は、その昔 (ぶつ)(りゅう)(こう) に関係があった人、ともいわれる。
 他宗批判は宗教に (もと) るとして、「万教同根」を主義とする点は、生長の家と同類である。その主張が認められたのか、庭野日敬は過日、新日本宗教団体連合会(新宗連)の理事長にもなった。
「会員綱領」を挙げてみる。
「立正佼成会会員は、恩師会長先生のご指導に基づき、
仏教の本質的な救われ方を認識し、在家仏教の精神に立脚して、人格完成の目的を達成するため、信仰を基盤とした行学二道の研修に励み、多くの人々を導きつつ自己の錬成に努め、家庭・社会・国家・世界の平和境(常寂光土)建設のため、菩薩行に挺身することを期す」(青年部教材)
 現在の佼成会は二代目の 日鑛(にちこう) が会長、そして、日敬は 開祖(かいそ)、妙佼は脇祖(わきそ) と呼ばれている。

 新潟で生まれた日敬は18才の時上京し、米屋や炭屋に勤め、後に漬物屋や牛乳販売を 生業(なりわい) とし、生計を立てていた。その間、様々な宗教や占い等に関係しながら霊友会に入会。子供の病気を予言され、それが当たったのをきっかけに入会し、その後、先祖の霊を (まつ) ったら子供の病気が治ったという。この現証に () された日敬は、ついに霊友会の強信者となり、布教陣の筆頭格にのし上がった。
 一方、牛乳の配達先であった客人の中に、病気がちな焼芋屋のかみさんがいて、病気が治りたい一心で、日敬に (すす) められて入会、それが長沼マサ、後の妙佼である。焼芋屋の店員として働いていた (おい) が、ある時腹痛をおこしたが、先祖供養によって不思議にも治った、その現証を見た妙佼は、全く人が変わったように霊友会にのめりこんだ。
 こうして日敬と妙佼のコンビが誕生し、霊友会の布教に加担していった。日敬の霊友会への入信窓口となり、しかもその後の指導者でもあった支部長の新井助信は、よく法華経の講義をしており、日敬はその講義を聴くのを好んだ。
 日敬・妙佼が霊友会を脱会した経緯については、霊友会の会長・小谷キミが全国支部長会議の席上で、次のような発言をしたからとされる。
「突然、正面にすわっていた小谷キミ会長が荒々しく演壇に立つと、激しくみんなを非難した。そして『法華経の講義なんて時代遅れだ。そんなことをするのは悪魔だ』とさえ放言した」(30年の歩み)
「帰り道、庭野青年は長沼マサさんを訪れると、会議の一部始終を話した。そして、脱会の決意を語った……
翌朝、恩師の新井先生に会い、ふたりの決心は不動のものとなった」(30年の歩み)
 日敬が霊友会に入って3年半、妙佼は2年、昭和13年の一月のことある。こうして脱会した2人は同年3月5日、大日本立正交成会を結成したのです。

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