【霊友会】〝苦しんだ先祖の霊を本尊とする矛盾宗教〟
【1.キミの無意味な荒行からはじまった先祖崇拝】
キミが行ったのは、
一、真冬に一日中、浴衣一枚で生活する
一、真夏に布団を首までかけて一日中過ごす
一、毎日、数時間に及ぶ水行(水をかぶること)を実践
一、五一日間を一日一合のそば粉で過ごす
一、21日間の断食
などで、修行を終えたキミは、霊能者としての確信を持つようになった。
【2.相次ぐ事件・検挙による教団の変遷】
昭和5年7月、すでに若月チセ・戸次貞夫と袂を
分かっていた角太郎は、小谷キミ等とともに新たに霊友会の発会式を挙行し、元男爵氷山武敏を会長として、理事長に角太郎、名誉会長にキミが就いた。
しかし、氷山が3カ月後に会長を辞したので、キミが後任となった。本部を赤坂伝馬町のキミの自宅に置き、角太郎等は精力的な布教を展開するとともに、女性信者を 次々と霊能者に育て、次第に教勢を広げていった。
同9年、『大日本霊友会報』を発刊し、同12年には東京狸穴に本部講堂を建てた。この頃からキミの指導に対する教団幹部の反発が出はじめ、やがて同会を離れて新しい教団を設立する者も出た。
戦時中は、当局の新宗教に対する弾圧から逃れるため、子爵仙石家の娘の村雲尼公を総裁に迎え、さらに教団行事として毎月1日に伊勢神宮への参拝を行った。
同19年11月、53歳で角太郎が死去してからは、キミが全権を握って教団の運営をした。
同24年、占領軍の捜索を受け、本部から金塊とコカインが摘発 され、翌年にも脱税容疑で捜査が入り、麻薬を所持していたキミが検挙された。キミは間もなく釈放されたが、これらの事件によって幹部や会員の不満が一気に 噴きだし、教団はあいつぐ分裂と多くの脱会者を出した。キミは同28年にも、赤い羽根募金110万円の横領、闇ドル入手、贈賄の容疑で検挙された。ほどなく釈放されたが、不祥事件の続発に霊友会への社会批判が集中した。
同39年、青年部員の錬成道場として、伊豆遠笠山に「聖地弥勒山」を建設し、弥勤菩薩像を祀り、また新教典「弥勒経」をつくって弥勒信仰を取り入れた。
同46年2月、小谷キミは70歳で死去した。その後、会長に就任した久保
継成
は、
人間の心に帰ろうという意味の「いんなぁ・とりっぷ」キャンペーンを開始して教団の宣伝に努め、同50年には本部講堂を解体し、「釈迦殿」を完成させた。
しかし、やがて本部執行部との間に確執が生じ、平成5年に会長を辞任した。同8年に濱口八重が会長に就任し、同年11月からは「運営会議」と称する集団合 議制を採っている。
平成3年、会長の濱口八重が逝去したことによって、大形市太郎が第四代会長に就任した。
なお、霊友会から分派・独立した教団は霊友会系諸教団と呼ばれている。
【2.仏所護念の延長=先祖を利用した、まやかし】
霊友会では「仏所護念の御本尊」と称する各自の〝祖霊〟を礼拝の対象とする。ただし、本部の釈迦殿には釈迦像、伊豆の「弥勤山」には弥勒菩薩像が祀られている。
霊友会では「霊界と娑婆世界とは表裏一体、先祖が成仏していれば子孫も幸せになり、先祖が迷っていれば子孫も苦難を受ける」と主張する。
そこで霊媒者が霊界から仏菩薩を呼び出して指導を受け、また祖霊からは苦しみの因縁を聞き、それらの指示や因縁にもとづいて懺悔滅罪を祈り、祖霊を供養することによって、先祖も自身も悪い因縁を断ち切り、霊の加護を受けて家族の幸福と国家の安康が得られるという。
また、教団では「天地のすべては妙と法の二つから成立している」といい、「女性は陰にして妙を、男性は陽にして法をあらわす」とし、「妙法がそろってはじめて
諸精霊に対する真の供養ができる」と主張する。その供養方法としては、男女ともにわかる限りの先祖の名前を本部に提出させ、その名をもとに生・院・徳の文字
の入った戒名を本部が新たに付け、それを本部と家庭の両方で祀って供養をする。
具体的にいえば、会員家庭にあっては、まず「総戒名」なるものを祀る。その基本形式は、
であり、これと一緒に先祖の法名を命日ごとに記した霊鑑(過去帳)を仏壇に祀る。この法名も霊友会特有の、
○生院法○○徳善士(男性の場合)
○生院妙○○徳善女(女性の場合)
というものである。
この総戒名と霊鑑の前に、コップに入れた水・線香・ロウソク・花・供物を供え、白地の片タスキ(前に「南無妙法蓮華経 霊友会本部」、後ろに「南無妙法蓮華経教菩薩法仏所護念分別広説仏正」と書いてある)をかけて、朝夕30分ほどのお経と題目を上げる。
お経は「青経巻」と呼ばれる経本『南無妙法蓮華経 朝夕のおつとめ』にもとづく。これは『無量義経』『法華経』『観普賢菩薩行法経』の法華三部経の抄録
と、先祖供養のための「回向唱」と「唱え奉る大乗方等経典は、為れ大慈大悲の法藏なり…」ではじまる「祈願唱」を加えたものである。
会員は、本部で毎月行われる「在家のつどい」や「夕ベのつどい」に参加したり、体験談を語り合う「法座」に出席する。また、弥勒山での大祭、セミナーや身延七面山恩師御宝塔参拝登山修行にも参加する。
特に、「おみちびき」と呼ばれる布教活動は、最大の功徳をもたらす修行とされる。
【3.矛盾する先祖崇拝と先祖供養】
◇霊友会では、西田無学が主張した「仏所護念」の意義付けをそのまま踏襲している。本来、法華経に説かれる「仏所護念」とは〝正覚の仏が護り念じてこられ
たところ〟との意味であるのに対し、西田は〝死んだ人の霊のいる所を護り、念ずること〟と間違った解釈をし、自らの先祖供養法の根拠とした。霊友会の教義
は、このような誤った解釈をもととしている。
霊友会では先祖の霊を本尊としている。しかし先祖といっても、我々と同じように一人の人間として、猛烈に苦しんだり悩んだりしながら生きた荒凡夫であり、死後も悪縁によれば苦を感じ、善縁すなわち正法によれば安楽の果報を受ける凡夫であることに変わりがない。
人間は死んだからといって正しい悟りが得られるわけではないので、死者が子孫を守ったり苦悩から救うことはできない。したがって、先祖を本尊として祀り、祈願や礼拝の対象とすることは仏法上、大いなる誤りである。
◇先祖供養方法について、霊友会では〝総戒名を祀れ〟と教えている。しかし、教団が所依の経典としている法華経のどこにも、「生院徳の文字を使った戒名をつけ、それを崇めよ」などとは説かれていない。
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