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 パーフェクトリバティー(PL)】〝身代り神事で信者を騙す教団〟 


【1.〝神から与えられた個性〟 という矛盾】
 PL教団では、「大元霊(みおやおおかみ=一切の根元で宇宙を統一した神)」、「教神(金田徳光、御木徳一、御木徳近の三霊)」、「祖霊(全信徒各家先祖の霊を合祀したもの)」の3つを信仰の対象として本部・正殿に祀(まつ)っている。

 また信者の家庭では、教祖が魂入れした「神霊(みたま)」を祀っている。この神霊には、初信者用と、信仰が進んだ信者用の2種類がある。

 教団では、2代教祖・徳近による『PL処世訓21箇条』を説いていて、この処世訓(おおしえ)は、第1条の「人生は芸術である」が中心。これは、自分の気持ちや個性を物事を通して表現するということで、これは芸術家等に限定されるものではなく、人間生活の一切が芸術そのものであるとしている。
 また教団では、「人間は神から芸術する使命を与えられており、各人がその芸術表現を通して自我を離れ、〝神から与えられた個性〟 を自由に発揮してこそ楽しく生きることができ、それが実現した境地を神人合一、パーフェクト・リバティ(完全なる自由・真の自由)と呼ぶ」などとしている。 神から与えられた時点で個性ではないという矛盾を、なぜ気付かないのか。


【2.結局は商売】

 また教団独自の教えとしては次のようなものがある。

(1)神示(みしらせ)・・神が警告として人間に与える苦悩。
(2)神宣(みおしえ)・・教祖等によって授けられる、神
示の原因を教える神の言葉。
(3)身代り…教祖等が、信者や教師に突発的に起こった苦悩を、本人に代わって引き受けること

(4)祖遂断(おやしきり)・・これを唱えると、神や教神の余徳と教祖の力が授けられ、苦悩や災難からまぬがれる。
(5)遂断(しきり)・・信者が物事を行うまえに、必ず成し遂げることを神に誓う。

などがあり、信者は毎日、神霊(みたま)に向かって朝詣と夕詣を行い、その時に声に出して「お・や・し・き・り」と連呼する。

 また「一の日詣」といって、毎月1日、11日、21日には教会に行くように指導されます。さらに信者は必ず班に所属し、「教座(きょうざ)」と呼ばれる座談会に出席し、教団の教えを学習することになっている。
 信者は、神に何かを願うとき、お礼を言うときには「宝生袋」に任意でお金を入れ献金します。これをすると、教祖の祖遂断によって利益が得られるなどとしている。


【3.曖昧な神と思いつきの礼拝対象

 教団では、宇宙の根本神を「大元霊」としているが、この神が一体何者なのか、どこに存在するのか、また「教祖によって世の人々は真の救いを得た」などと主張し、教祖との優劣についても不明。
 また2代教祖・徳近は、礼拝対象物を日章マークにしたがその根拠も不明。「私は自分で造形した神を、自分で決定した礼拝形式で私自身が拝みます」などと徳近自身が言っているように、すべては教祖の思いつきに過ぎない。つまりこの教団は、信仰で最も大切である礼拝対象物(ご神体)ですら、このようにいい加減なものなのである。つまりこれは「この教団の信仰そのものがいい加減である」ということである。


【4.「身代り」のデタラメ

 教団では「身代り」の神事によって、信者たちの病気や惨事をすべて教祖自身に振り替えて解決するなどと主張している。しかしこの「身代り」は、「御嶽教徳光大教会」の教祖・金田徳光がすでに行っていたもので、PL教団独自のものではない。
 しかも、初代・御木徳一は金田に喘息を治してもらったということになっているが、徳一は終生、他人に隠れて喘息の薬を飲み続けていたという証言もある。
 仮に、教祖がそのような身代りをできるとするならば、現在、100万人を越すといわれる信者たちの病気や苦悩を背負って、教祖は常に病弱で苦悩まみれの境遇でなければならない。
 教団自身が「おしえおやはあくまで人間であって神ではありません」と言っており、生身の人間である教祖にこのような身代りなどできるはずもなく、科学的検証にまったく耐えられないデタラメである。
 2代教祖・徳近は「科学的根拠の無いような宗教は其れ自体虚偽」などと言っているが、この言葉はそっくり自分たちに返ってくることを知るべきである。


【5.「神示(みしらせ)」の矛盾

 教団では「神示」なるものを説き、「人の我(が)や個癖が原因になって引き起こされる自己表現のひずみが、病気・不幸・災難などの形となって現れる」などとし、「心の持ち方しだいで幸・不幸が決まる」などと主張している。
 しかしこの論法でいくと、生まれながらにして傷害や病気を持つ人の存在を説明でず、さらに、不慮の事故や災害でいきなり命を落とす人=これを「神示」だというのであれば、PLの神というのは実に無慈悲な存在である。



【6.低俗な処世訓

 「人生は芸術である」が中心となる『PL処世訓21箇条』が、この教団の教義の中心になっている。教団では「自我を離れ、自己を顕現していくところに人生の真義がある」などと主張しているが、「自我を離れる」などというのは人間には不可能なことであり、こういうことをもっともらしく語ること自体、この教団が人間の本質をまったく分かっていない証拠である。

 「五欲を離れず」「煩悩を即(すなわ)ち菩提 (ぼだい=悟り)と転ずる」

とする仏教と比べるまでもなく、人間性を無視した低俗な処世訓でしかない。
 また「自己を顕現する」だけで真の人生の幸福が得られるはずもなく、他の条目についても、まったく抽象的で底の浅い、ありきたりの言葉の羅列でしかない。教祖の悟りと称するものがこの程度であるところに、この教団の教義の低俗さといい加減さが見える。

 


【創 立】
 1946(昭和21)年9月
【創始者】御木徳一
【代表者】御木貴日止
【信仰の対象】
・大元霊(みおやおおかみ)
・教神(幽祖:金田徳光、初代:御木徳一、2代:御木徳近)
・祖霊(おやみたま=信者の先祖)
【教 典】
『PL教典』『PL処世訓21箇条』
【本 部】
 
大本庁:大阪府羽曳野丘陵
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 教団は、御木徳近(みき・とくちか)が「人生は芸術なり」などの処世訓を教義として創立した神道系の教団。教団名のPLは「完全なる自由」という意味。また教団では、徳近の父である御木徳一(みき・とくはる)を初代教祖とし、さらに徳一が「御嶽教徳光大教会」の教祖・金田徳光の弟子であったことから、金田を幽祖としている。

 明治4年に現在の愛媛県に生まれた御木徳一は、8歳の時に禅宗の寺で得度し、明治26年には禅寺の住職にもなったが、その後は織物製造や農機具販売などの事業に失敗し、明治43年には還俗(げんぞく=僧職をやめること)した。
 貧窮生活の中で妻に先立たれ、自分も脚気と喘息に悩まされるようになった徳一は、病気治しで有名だった金田徳光を訪ね、大正5年、御木徳一と息子の徳近は「御嶽教(みたけきょう)徳光大教会」の教祖・金田徳光に弟子入りした。徳一は、一時は教団内で信望を得たものの、 虚言癖があって疎まれるようになった。
 大正8年に金田徳光が病死し、まもなく徳一は風紀問題を起こして教団から追放された。しかし徳一は大正13年、自分が金田の正統な後継者と主張し、教団に対抗して別教団を結成。昭和3年には教団名を「扶桑教ひとのみち教団」としました。

 昭和11年、徳一は教祖の地位を息子・徳近に譲ったが、同年9月、徳一は少女に対する強姦猥褻容疑によって逮捕されるという事件を起こした。その半年後、「天皇も、その心根を正すために神から苦痛が与えられる」という教義が不敬罪という理由で、徳近以下幹部14名が治安警察法違反で検挙、教団は解散処分となった。これが「ひとのみち事件」である。教団は控訴したが昭和19年に有罪が確定。その間、徳一が昭和13 年に死亡。この「ひとのみち事件」以後、教団内部で意見の対立が起こり、やがて新しく教団を設立する有力幹部なども現れ、第2代・徳近は昭和21年2月、「PL宣言」を発表し、同年9月には「PL(パーフェクト・リバティ=完全なる自由)教団」を立教した。

 昭和29年に大本庁を設置したが、第2代・徳近夫婦に実子がなかったため、3代目教祖の座をめぐって内紛が起き、その結果、御木貴日止(みき・たかひと)が任命された。そして昭和58年、第2代・徳近が死去し、貴日止が3代目教祖に就任して現在に至る。

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