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 内外(ないげ)相対


 仏教がみずからを内道(ないどう)というのに対し、それ以外のあらゆる教法を外道(げどう)という。この外道と内道を相対して勝劣を決するのが内外(ないげ)相対です。
 内外相対とは、内道(仏教)と外道(キリスト教・儒教・神道・新興宗教等)との勝劣相対をいいます。この勝劣の基準は、三世の因果を説くか否かにあります。仏教以外の外道はいずれも三世(前世・現世・来正)の因果を無視し、自分の現在の果報を過去の原因から突き止め解決しようとしない、あるいは部分的な浅い因果しか説いて いませんが、内道の仏教は、過去・現在・未来の三世を明らかにし、真の因果の道理を説いています。したがって内外相対すれば、内道である仏教が勝れている ことが明らかです。
 仏教では三世の人生観・世界観、生命そのものを中道の上に如実に説き尽くしていますが、対して外道は空想や妄想から作られた何らかの独断的なもの(神など)に依っています=その一例として人間は生きている間だけの存在で、生前の過去も死後の未来もないと言っています→この見解を仏教では断見(だんけん)と呼んで論破しています。
 また、ある外道では人間等の生物には個我という不変の存在があるとし、そこから死後の霊魂等を説明しています→この見解を仏教では断見(だんけん)と呼んで論破しています。
 ともに外道の辺見は因果の法則を否定したり、部分的・偏向的な因果を説く短見謬想となって顕われているおです。
  また、宇宙間の事物は必ず因果の法則によって成立すします。しかるに唯物論では物質が本体で、一切は物質の進化によって顕われる現象というのですが、しからば物は何によってできたかというと、物は根本的存在であるといい、このように特定の本源的存在をおくことは、基本的な因果の理法に背くものです。
 キリスト教もこの点むしろ唯物論と同様で、一切は神が造ったといいますが、その神は誰が造ったかといえば、神は根本であって造られるものでないと、因果論を説明できないのです。
 このように一切の本源を物といい、神というも、ともに因果の法則を無視する偏見にすぎません。
 これに対し、仏教は諸法の起滅を内外両面より正しくとらえた因縁によって説明しています。したがって因果の道理を無視した絶対的存在を主張することは独断といえます。
 仏教では、人生の吉凶禍福は決して自然や偶然でなく、現在の果報は長い過去の因により、また未来の果報は現在の因によることを示すのです。
 儒教では、現在の一世にのみ因果をたてますが、過去と未来にわたる永い生命の変転相からの因果はとらえません。また、インドの宗教哲学は、主なものを六師外道(りくしげどう)といい、一応は一部の因果論を立てつつ或は否定するけれども、すべて生命の原理を見失った我見に基づく偏理偏論であるため、正しい生命の解脱を得ることができないのです。
 仏教こそ宇宙の生命の全体観に立脚し、過去・現在・未来の三世を明らめ、正しい因縁観のよって人生の指針を示す教えなのです。このように、外道と内道の優劣邪正を決するのが内外相対です。






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