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 第 二 祖 ・ 日 興 上 人 の 御 生 涯




 1.()(たん)(じょう)(じょう)(ずい)(きゅう)()



 日興上人は、(かん)(げん)四(一二四六)年三月八日、()(いの)(くに)()()(ごおり)(おお)(いの)(しょう)(かじか)(ざわ)(山梨県富士川町)に御生まれになりました。父親は(おお)()(きつ)(ろく)、母は富士上方(かわ)()()()()の女性でした。
 幼くして父を亡くした日興上人は、(かん)(ばら)()(じゅう)()(いん)(静岡県富士市)に登られました。そしてその頃、『(りっ)(しょう)(あん)(こく)(ろん)(しっ)(ぴつ)のために、岩本の(じっ)(そう)()(静岡県富士市)を訪れた(にち)(れん)(だい)(しょう)(にん)に出会い、お弟子になられます。日興上人は「(ほう)()(ぼう)」と呼ばれ、常に大聖人のそばでお仕えしました。
 (こう)(ちょう) 元(1261)年の ()()(はい)()の際、伯耆房は大聖人を追いかけて、鎌倉から伊豆へと向かってお仕えしました。また(ぶん)(えい) 8(1271)年の ()()(はい)()では、大聖人のお供をして佐渡まで行き、おそばでお仕えしました。佐渡では()(ぶつ)(ぼう)()(さい)など、少しずつ()()(だん)(のつ)が現われてきます。後年、日興上人と()(どの)(くに)(ほっ)()(こう)(しゅう)との交流が(はい)されますが、それはこの時の(えん)によるものでしょう。
 大聖人は、(しゃ)(めん) となって、鎌倉にて第3回目の (こっ)(かん)をされた後、()(のぶ)(山梨県身延町)へと入られます。この時に身延の地を選ばれたのは、伯耆房を(しょ)(ほっ)(しん)()(しょう)とする()()()(さね)(なが)()(とう)(つと)める地であったことによります。
 その後、伯耆房は、大聖人から法華経の講義を(はい)(ちょう)する(かたわ)ら、(うえ)(のの)(ごう)(静岡県富士宮市)の(なん)(じょう)(とき)(みつ)殿(どの)の館を(きょ)(てん)として、富士方面の()(きょう)(はげ)まれます。
 こうした中、(りゅう)(せん)()の僧侶であった(にっ)(しゅう)(にち)(べん)(にち)(ぜん)の三師が()()し、さらに信徒も増えていきました。しかし、そのために滝泉寺(いん)(しゅ)(だい)(ぎょう)()らの(さく)(ぼう)によって、法華講(だん)(あつ)(あつ)(わら)(ほう)(なん)(じゃっ)()します。
 熱原法華講衆は、伯耆房の指導を受けて(しん)(こう)(つらぬ)きましたが、ついに(へい)(のさ)()(もんの)(じょう)(より)(つな)によって(じん)()(ろう)()()(ろう)()(ろく)(ろう)(さん)(れっ)()(くび)を切られてしまいます。
 しかし、この法難の最中である(こう)(あん) 二(1279)年10月、大聖人は出世の (ほん)(がい)()げるべき時の(とう)(らい) を明らかにされ、12日に (ほん)(もん)(かい)(だん)(だい)()(ほん)(ぞん)()(こん)(りゅう)されました。その願主には、
 「 ( ほっ ) ( ) ( こう ) ( しゅう ) ( ) ( けい ) ( びゃく )
と、伯耆房と共に法難を乗り越えようとしている法華講衆の名が刻まれています。
 弘安五年に、御体の不調を覚えられた大聖人は、日興上人に(ゆい)(じゅ)(いち)(にん)(けち)(みゃく)(そう)(じょう)されました。すなわち『日蓮 ( いち ) ( ) ( ) ( ほう ) ( ) ( ぞく ) ( しょ ) に、


「日蓮 ( いち ) ( ) の弘法、 ( びゃく ) ( れん ) ( ) ( じゃ ) ( ) 日興に ( これ ) を付嘱す、 ( ほん ) ( もん ) ( ) ( づう ) の大導師たるべきなり。国主 ( ) の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。 ( ) ( かい ) ( ほう ) ( ) ふは ( これ ) なり。 就中 ( なかんずく ) 我が門弟等此の状を守るべきなり。 」
  弘安五年 ( みずのえ ) ( うま ) 九月 日
   日蓮 ( ) ( おう )
   血脈の次第 日蓮日興」

と、証文となる付嘱書を記されて、日興上人へ(じゅ)()されたのです。
 その後、大聖人は、常陸(ひたち)の湯(福島県いわき市)で(とう)()するために身延山を下りられました。その途上の()(しゅう)(いけ)(がみ)(東京都大田区)にて、大聖人は『立正安国論』の御講義をされましたが、御体は弱まり、()(にゅう)(めつ)間近となってしまいました。
 大聖人は、日興上人を身延山の(べっ)(とう)に付され(『身延山付嘱書』)、さらに本弟子六人を選定されます。伯耆房も、その中に「白蓮阿闍梨日興」(日興上人)と選ばれています。
 10月13日、池上の地で大聖人は御入滅され、日興上人はその ()()(こつ)を胸に身延へと帰山されました。
 

 2.()(のぶ)()(ざん)と大石寺建立


 

 日興上人ら(ろく)(ろう)(そう)は、大聖人の()(しょ)(りん)(ばん)でお守りする制度を決めましたが、現実には日興上人の門弟が行っていました。 大聖人の一周()にも三回忌にも五老僧は登山せず、ようやく弘安八年に、本弟子の一人(みん)()()(こう)が身延に登山してきました。 この時、喜ばれた日興上人は、日向を(がく)(とう)に任じられました。

 しかしその後、日向は波木井実長の(ほう)(ぼう)を助長し、禁じられていた(こっ)()(あん)(のん)()(とう)を行い、さらに()(まん)()()なるものを画かせる大謗法を行うに(いた)りました。日向も波木井実長も、日興上人の(くん)(かい)を聞き入れることはありませんでした。
 ついに日興上人は、
「地頭の不法ならん時は我も住むまじ」(日蓮正宗聖典)
「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(御書)
との大聖人の御言葉に(したが)って、身延を離山することを決意されました。その御心情は、次の『(はら)殿(どの)御返事』に拝されます。
「身延沢を ( まか ) ( ) ( そうろう ) ( こと ) 面目なさ本意なさ申し ( ) くし難く候えども、打ち還し案じ候えば、いずくにても聖人の御義を ( あい ) ( ) ( まい ) らせて、世に立て候わん事こそ ( せん ) にて候え。さりともと思い ( たてまつ ) るに、御弟子 ( ことごと ) く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて、本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候えば、本意忘るること無くて候」(日蓮正宗聖典)
 こうして身延を()(ざん)された日興上人は、富士の河合の地を経て、南条時光の招きにより、上野へと移られます。
 そして南条時光より、北に広がる大石が原の寄進を受け、(こう)(せん)()()根源の寺院である大石寺を開創されたのです。

 3.(おも)()(だん)(じょ)の設立と徒弟育成


 大石寺開創の翌日、日興上人は日目上人に唯授一人の血脈を相承されて、(じょう)()御本尊を()(したた)めになられました。
 日興上人のお弟子方は、次々に(たっ)(ちゅう)(ぼう) を建てられ、やがて現在の中央塔中の十二ヵ坊が創立されました。
 さらに大聖人の仏法の正義を立てるため、広宣流布への(いしずえ)のために、(そう)(りょ)の学問所として(おも)()(だん)(じょ)を開かれました。
 日興上人は、大聖人の御書を書き写して大切にされ、また弟子の(さん)()(にち)(じゅん)らをして、大聖人の教えに背く五老僧との教義や信条の違いを整理させました。この御精神は、『日興 ( ゆい ) ( かい ) ( おき ) ( もん ) の第一条の、
「富士の ( りゅう ) ( ) ( いささか ) も先師の御弘通に違せざる事」
との条文に表わされており、以後の大石寺門流に脈々と受け継がれていったのです。()(らい)(いく)(せい)(そう)、日目上人以来の()(ほっ)()(しょう)(にん)が唯授一人の血脈を(しょう)(けい)され、本門戒壇の大御本尊を(げん)()してまいりました。









   

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