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【念 仏(ねんぶつ)】〝南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)〟は自殺思考を増長させる 


【1.仏教乱立は個人思想が原因】
 インドに生まれた釈尊(お釈迦様)は、釈迦族の王子として何不自由ない生活を送っていたが、ある時、お城の外で生活している人々の姿を見て、このように思った。いくらよい衣服を着、おいしい食べ物を食べて物質的に満たされていようが、
 生(生まれる苦しみ)
 老(老いる苦しみ)
 病(病に罹(かか)る苦しみ)
 死(死ぬ苦しみ)

という人間の根源的な四つの苦しみからは絶対に逃げられない。すべての人が抱く、この苦しみを解決したい。釈尊は19歳の時に王子の身分を捨てて出家し、長い修行を経て30歳の時についに悟りを開き、根源的な苦しみを解決する道を悟られた。
 それから入滅するまでの約50年、いろいろな人にその道を説いた。
↑これが現在、数多くの経典として残っているのだが、どの経典に依処するかで様々な宗派が乱立する結果となっている。
「どの宗派でも仏教には変わりない」という人もいるが、それは間違いだ

【2.南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」は釈尊の本意か?】
 無量寿経や阿弥陀経を依教とする浄土宗・浄土真宗ではこのように教える。
「この娑婆世界(しゃばせかい)は苦しみの充満する世界であり、この世界に生きる私たち凡夫には厳しい修行に堪(た)えられないから、到底この世で仏になることはできない」
「だからこの娑婆世界で幸せになることは諦(あきら)めて、”死んだ後”に”極楽浄土”という娑婆世界よりもすばらしい世界に生まれ変わりましょう。そのために今は『南無阿弥陀仏』と念仏を唱えましょう」

 これが本当に釈尊が説かれた解決の道なのだろうか。
よく考えてみると、この念仏の教えでは、釈尊が出家前に抱いた四つの苦しみは全く解決できていない。第一に「死んだ後」という以上、”死”という問題を全く向き合っておらず、死苦は解決されていない。さらには生苦・老苦・病苦についても
「今生での出来事(できごと)は諦めてください」
↑というのだから、全く何の解決にもなっていない。
では死後は確実に「極楽浄土」なる場所に生まれ変わることができるかといえば、これも残念ながら”できない”と言わざるを得ない。そもそも釈尊の真実の悟りとは、すべての人を即身成仏(その身のままで仏に成る)という最高の境界に導くための教えである。
「娑婆世界に住んでいる人は残念ながら成仏できません。だから代わりに”極楽往生”しましょう」などという教えが釈尊の本意である訳がない。
所詮、念仏の教えは、真実(法華経)に導くための方便(仮(かり))の教えである。


【3.実は恐ろしい浄土思想】
 浄土的な思考で日常の様々な困難を乗り越えることはできるのだろうか。
うまくいかない時、常に
「この仕事は自分に向かないから辞めよう」「嫌いな人から逃げよう」「待っていればいつか助け舟がくるだろう」「隠れておこう」「面倒な事は避けよう」「どうせ頑張っても報われない」
でよいか??
 確かに一時的にそれで一時しのぎできたたとしても、本当に心の底から人生に思い悩んだ時、「この人生はもう嫌だから死んでしまえば楽になる」と思ってしまったならば、それこそ苦悩に喘(あえ)ぐ地獄の姿そのものではないか。


【4.法華経に説く娑婆世界】
 果たして娑婆世界は忌み嫌われるべき場所なのか?釈尊の本心が説かれた法華経では、
「我常(われつねに)に此(こ)の娑婆世界に在(あ)って、説法教化(せっぽうきょうけ)す」
「我が此(こ)の土(ど)は安穏(あんのん)にして天人常(つね)に充満せり」
と、娑婆世界は即寂光土(仏が常住の国土)であることが明かされている。
蓮華が汚泥(おでい)の中から美しい花を咲かせるように、我々の住む世界がどんなに汚れた苦悩の多い場所であっても、妙法の当体たる御本尊の縁に触れれば即身成仏の境界を開くことができ、その人の住む環境もまた、すばらしい仏国土に変えていくことができる。
どんな境遇の人でも、皆等しく”この御本尊に帰依(きえ)すれば成仏できる。必ず幸せになれる”これが仏の本意であり、唯一真実の解決の道なのだ。



【5.念仏の悪人正機】
 浄土真宗の開祖・親鸞は、
「善人でさへ極楽に往生するのだから、悪人が往生することは言うまでもない(趣意)」
(浄土真宗の常識 28頁)
↑などと馬鹿げた事を言う。悪人をも救済するのは大乗仏教の優れた所以であるが、善人よりも悪人のほうが往生しやすいとは、どのような理屈によるものだろうか。
 善因善果、悪因悪果とは仏教の大綱であり、これを無視した教えは、もはや仏教ではない。
昨今の日本の諸相を見れば、親が子を殺し、子が親を殺すなど、思いもよらない悪が充満している。
「悪いほうがいいんです」と嘯(うそぶ)く宗教に、世間を浄化する力がないことは明らかだ。


【6.念仏の他力本願】
 浄土真宗では「他力」(阿弥陀仏の力)の救済に頼り、「自力」を徹底的に否定する。
では「自分」はどんな態度でもいいのか。
 この宗派独特の”ぐうたらぶり”がよく表れているのが、「法蔵菩薩という菩薩が(中略)『頑張りなさい』『努力しなさい』『悔いなく生きなさい』などと、私に願いや理想を告げるのを止めたというのです。」(浄土真宗の常識 36頁)
という教えだ。
 努力することを評価しない宗教に未来はない。なにせ、寺院参詣する努力や朝夕のお勤めをする努力は無用となる理屈だ。ならば、自宗を世の中に普及する努力もやめれば、いかがなものか。


【7.念仏の西方極楽浄土】
 あらゆる方角のうち、なぜ、西方なのか。「なるほど浄土真宗」では、西を夕日の沈むところとして、
「言い表すことのできない感動的な光景(趣意)」(なるほど浄土真宗 14頁)
だと賞賛している。
 たしかに感動的だが、例えば同じように朝日に感動する人もいるだろう。結局”西”に限定すべき根拠はなるほど浄土真宗には見当たらない。
西方極楽浄土を言うならば、東方浄瑠璃世界など、十方(あらゆる方角)に無数の仏様がおられ、あらゆる浄土が存在する。
”西”でなければならぬ理由を示して見よ、と言いたい。


【8.往生と成仏】
 往生というのは「ある場所に生まれ変わる」ことで、成仏とは「悟りを開く」ということだ。
言うまでもなく仏様は、悟りを開いた事で仏となり、あらゆる苦悩から離れられたのだ。仏様が人々の苦悩を除くために示す道は、成仏への道に他ならない。
 対して、浄土真宗で言う「往生」とは、「苦しみに満ちたこの世を離れ、悪に満ちた我が身を離れて、とりあえず西方の極楽浄土に往生しましょう。しかる後に成仏をめざしましょう」というものだ。
 ならば逆に問う、私たちが生きているこの世は荒んだままでもいいのか?今生の我が身や家族は不幸のままでも仕方ないのか。なぜ西方浄土に限定するのか?それほどまでにすばらしい西方浄土から、さらに成仏をめざす意味があるのか?
 直接「成仏」への道を示した釈尊の教えを黙殺するのはなぜか。すべての教えが矛盾と欺瞞に満ちている。
 人生の苦境に立たされた時、本当にその人を救ってくれるのは、どのような教えだろうか。
 心身共に疲弊しきった人に「来世は極楽に往生しましょう」と言ったらどうだろう。実際、中世においては「捨身往生(しゃくしんおうじょう)」と言う自殺行為が流行していたという。言うまでもないが、現実逃避からは本当の幸せは生まれない。
 しかし釈尊の本懐である法華経の教えは、これとは正反対だ。仏様は我々一人ひとりの境界を、けっして否定したりはしない。
 法華経寿量品に「我此土安穏 天人常充満」と説かれるように、我々の住むこの娑婆世界=穢土は、もとより仏様の領する浄土なのだ。我々個人もまたしかり、我々の命には仏様の命が具わっており、南無妙法蓮華経の御本尊に帰依することで、その命を開く事ができるのだ。ただ、我々の内にある「煩悩」が、その真実相を覆い隠しているに過ぎない。
 キリスト教徒であった内村鑑三は「日蓮上人を論ず」という論文で、日蓮大聖人を「誠実である」と称賛する一方、
「彼の大欠乏は、寛裕の美徳なかりしことなり。『諸宗無得道、堕地獄』は、彼の説法中、最も聞きにくき恒言(こうげん)なり。彼は『折伏』と称して、他宗攻撃をもっぱらとせり。(中略)日蓮の確信は敬すべし。彼の『折伏』、非誇(ひぼう)はなろうべからず」(「近代日蓮論」)
と、日蓮大聖人の慈悲の折伏の御振る舞いを批判している。これは仏教を知らない者の妄言にすぎない。
 法華経『譬喩品』に、
「ある長者が、火の燃えさかる家にいる子供たちを助け出すために、それぞれの子供が欲しがっていた羊車、鹿車、牛車を与えようと約束して誘い出した。子供たちは喜んで我先(われさき)にと家を飛び出したが、そこにはそれぞれが望んでいた車はなく、大白牛(だいびゃくご)車という最高の車があった (趣意)」
と「三車火宅の警え」が説かれるように、仏である大聖人から見たら我々は、煩悩の業火に焼かれようとしている子供と同じ。危機に瀕している子を前に、どこに何も言わず見ている親がいるだろうか。


【9.法華最第一】
 日蓮大聖人の “折伏,は、根拠のない偽善ではない。経典に裏打ちされた仏の本心に他ならない。
『無量義経』に、「四十余年には未だ真実を顕(あらわ)さず
法華経『方便品』に、「正直に方便を捨てて但(ただ)無上道を說く」
と示されるように、法華経こそ仏の本心で、それ以前に説かれた大日経(真言宗) や阿弥陀経 (浄土宗)は法華経を説くための準備に過ぎない。
法華経『不軽品』には不軽菩薩があらゆる人々に対して、
「我深く汝等(なんだち)を敬う。敢えて軽慢(きょうまん)せず」
と告げて礼拝行を実践したことが説かれている。すべての人に仏性(ぶっしょう)(仏になる可能性) " を認め、その仏性を礼拝したために、「このようなみすぼらしい僧侶に礼拝される筋合いはない」と人々の恨みを買い、杖や木で打たれ、瓦や石を投げられたという。


【10.蓮華”は仏性の開花】
 妙法蓮華経の “蓮華”とは、汚泥の中から白い清らかな蓮華の花が咲くことの譬喩でもある。三毒強盛の凡夫の命に尊い仏の命が具わっているとは簡単には信じられないが、正しい御本尊にひとたび 「南無妙法蓮華経」と唱えれば、汚泥から蓮華の花が咲くように、ふだんは冥伏している仏の命が顕現する。これが信心の功徳である。
 そして、末法においては”直ちに過ちを改めて、蓮華を咲かせましょう”と勧めるのが折伏で、かの不軽菩薩の礼拝行は、折伏を行ずる我々の範だ。


【11.念仏の教えは仏の本意か】
 では、 浄土宗- 浄土士真宗の教えはどうだろう。
「この裟婆世界(しやばせかい)は悩みや苦しみの多い世界で、とても幸せな境界を得ることは難しい。だから今生(こんじよう)はあきらめて、死んだ後に『極楽(ごくらく)』という理想郷に生まれ変わりましょう。そのために今は『南無阿弥陀仏』と唱えましょう」
という、あきらめ・逃げの根性が念仏の教えだ。

対して「法華経『方便品』には、
「諸仏世尊は、唯(ただ)一大事の因縁を以(もっ)ての故に世に出現したもう」

と、"一切衆生を成仏させる"という大きな目的のために仏は世に出現したと明かされている。したがって、この裟婆世界を忌(い)み嫌って、 今の人生を厭(いと)う念仏の教えが仏の本心であるはずがない。
 今を生きれば、環境問題や国際紛争など困難な問題の影響を被(こうむ)らざるを得ない。個人においても仕事や人間関係などに悩み苦しむことも多い。だからこそ、日蓮正宗の正しい信仰が求められている時なのだ。










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