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 釈 尊 の 説 い た 仏 教


【1.五 時】

 「五時(ごじ)」とは、釈尊一代の化導を説法の順序に従って、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五期に分類したものをいいます。

華厳(けごん)-----
 釈尊は、30歳のとき、中インド・摩竭陀国の伽耶城に近い菩提樹のもとで成道した後、海印三昧 という禅定に入り、その境地のなかにおいて十方世界から来集した法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵の 四大菩薩や、大乗根性の凡夫の機類に対して、21日間にわたり華厳経を説示しました。この時期 を「華厳時」といいます。
 この華厳時の説法は、釈尊が衆生の機根をはかるため、試みに高尚な教えを説いたものであり、仏 の化導のうえから、これを「擬宜(よろしきところをおしはかる)」といいます。この説法では、いまだ機根が熟していない衆生は、まったく理解することも利益を受けることもできませんでした。
 華厳経は教義の浅深からいえば、般若経より深く、法華経より浅い権大乗の経典になります。この権大乗の「権」とは、「仮り」という意です。
 この華厳経を依経として宗旨を立てているのが、奈良東大寺に代表される華厳宗です。

阿含(あごん)-----
 釈尊は、華厳の教えを説示された後、菩提樹のもとを起って波羅奈国の鹿野苑に赴いて、阿若憍陳 如等の五比丘に対して法を説き、その後12年間にわたり広く十六大国に遊化しました。この間、 釈尊は、華厳を聞いても理解不能な未熟な機根に対して「誘引(ゆういん)」の目的で、もっとも初歩的な教えである四阿含経(長阿含・中阿含・増一阿含・雑阿含)を説かれました。したがって、この時期を「阿含時」といい、また鹿野苑(ろくやおん)で説きはじめたことから「鹿苑時」ともいいます。
 これらの教えによって小乗教の人々は、外道の誤った因果観から離れることができましたが、空理のみに執着し、専ら自己の得脱だけを目指すという狭い境界に陥りました。このことから阿含経を小さな乗り物に誓えて「小乗」と称しています。
 この阿含経を依経とする宗派として、奈良仏教の倶舎宗・成実宗・律宗等があります。

方等(ほうどう)
 方等時とは、釈尊が阿含時の次に説法された16年間をいい、ここでは『解深密経』『楞伽経』『勝鬘経』『阿弥陀経』『無量寿経 (双観経)』『観無量寿経(観経)』『大日経』『金剛頂経』『蘇悉地経』『維摩経』『首楞厳経』『金光明経』等、数多くの権大乗の教えが説かれています。
 釈尊は、この方等時の説法で阿含の小乗教に固執する弟子たちに対し、大乗の教えが優れているこ とを比較して示し、小乗の空理を弾劾・呵責して弟子たちに恥小慕大(小乗を恥じて大乗を慕うこと)の心を起こさせました。したがって、この方等時の化導を「弾呵(だんか)」といいます。
 方等時の経典を依経とする宗派には、浄土宗・浄土真宗・真言宗・法相宗・禅宗等が挙げられます。

般若(はんにゃ)
 般若時とは、方等時の次に説法された14年間をいい、霊鷲山や白露池で、摩訶般若・光讃般若・勝天王般若・金剛般若・仁王護国般若等の『般若波羅蜜経』が説かれました。
 釈尊はこの般若時において、前の方等時で小乗を捨てて大乗を求める志を持った弟子たちに対し、仏の教法には本来、大乗と小乗との区別はなく、すべてが大乗教であることを知らしめました。これによって小乗が劣るという考えを篩(ふる)い落として精選し、すべてを大乗の教えに統一したのです。これを 「淘汰(とうた)」といい、また「般若の法開会」ともいいます。
 しかしここで説かれた経典は、いまだ真実を顕したものではなく、法華経に導くための権大乗の教えでした。
 釈尊滅後、正法時代の論師である竜樹は、この般若時に説かれた『摩訶般若波羅蜜経』の注釈書として『大智度論』を、さらに般若経の教理の体系として『中論』を著しています。この中論等を依経とする宗派には、奈良仏教における三論宗がありました。
 なお現在、写経などに用いられている『般若心経』は、この般若時に説かれたものです。

法華・涅槃(ほっけ ねはん)
 釈尊は、七十二歳より八年間にわたり、摩竭陀国の霊鷲山及び虚空会において『法華経』を説かれ、さらに涅槃の直前の一日一夜、沙羅林において『涅槃経』を説かれました。この時期を法華・涅槃時といいます。

・法華時
 釈尊は法華時の開経である 『無量義経』 において、
 「種種説法。以方便力。四十余年。未顕真実」
と説かれています。これは、釈尊が成道してより四十二年間に説かれた教えは方便の教えであり、それらの教法では成仏することができないことを示され、これから説かれる『法華経』のみが真の成仏の教えであるとの宣言にほかなりません。
 釈尊が方便の教えを設けた理由は、仏の悟りである法華経に対する衆生の機根がまちまちであったため、その根性の融和をはかるために四十二年間にわたり、蔵・通・別の教理を説き、頓・漸・秘密・不定の説法を用い、疑宜・誘引・弾呵・淘汰の化導を施してきたのです。
 したがって、法華経の説法では、声聞・緑覚・菩薩の三乗の人々に対し、もはや方便の教えは必要なく、ただ純円一実の教法が説かれたのです。この法華時における化導を「開会」といい、この開会を明かされた法華経こそ、釈尊一代にわたる最勝の教えであり実大乗教なのです。
 なお、法華経は釈尊が証得された大法を、仏自身の意に随って説き示されたことから「随自意」の教えといいます。これに対して爾前経は衆生の性質や願望に応じて説かれたことから「随他意」の教えといい、釈尊の真意ではありません。
 この法華経を依経とする宗派に、天台宗や日蓮宗等があります。

・涅槃時
 釈尊は、究極の法である法華経を説いた後、入滅に臨んで『涅槃経』を説かれました。
 この経は、法華経の会座より退去した五千人の増上慢の者をはじめ、釈尊一代の教化に漏れ成仏できなかった人々のために説かれたものです。したがって、法華経が一切衆生を成仏せしめることを秋の収穫に譬えるのに対し、涅槃経はその後の落ち穂拾いに譬えられます。
 涅槃経には、仏身が常住であることや、仏説には隔てのないことなどが説かれ、さらに「一切衆生・悉有仏性」の教義が示されています。このことから天台大師は、法華経の「一切衆生・皆成仏道」と説かれる教理と同じとして、涅槃経を法華経と同じ第五時に配しています。
 しかし涅槃経には、爾前権教の内容も重ねて説かれていることから、純円無雑の法華経と比較すれば、はるかに劣るものになります。
 この涅槃経を依経とする仏教の宗派は、中国仏教の涅槃宗等が挙げられますが、日本には存在していません。
 また涅槃経では、仏の教えが次第に深くなっていく相を、牛乳の精製の過程で生ずる五味(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味)に誓えています。 これを天台大師は仏の五時の説法の次第に準じ、華厳・阿含・方等・般若を前の四味とし、最後の法華・涅槃の経が極説の醍醐味にあたると説きまし た。


【2.八 教(四教+四教)】


化法の四教(けほうのしきょう)
 化法の四教とは、釈尊一代五十年の説法を、天台大師が教理内容の面から蔵教・通教・別教・円教 の四つに分類したものです。

蔵 教(ぞうきょう)
 蔵教とは三蔵教の略称で、三蔵とは経(経典)・律(戒律)・論(解説)をいいます。
 この三蔵は、本来、小乗教・大乗教の双方にそなわっているものですが、天台大師は法華経『安楽行品第十四』の、
 「貪著小乗 三蔵学者」 
の経文を「小乗に貪著する三蔵の学者」と読み、このことから小乗教を指して三蔵教と称しています。
 蔵教は声聞・縁覚の二乗を正機とし、菩薩を傍機として説かれた教えです。その教義は、三界・六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の苦しみが前世における煩悩(見思惑)と、そこからもたらされる業(行い)の報いによるものであるとし、この煩悩を断ずるためには、空理を悟るべきことを説いて います。
 蔵教で説く空理観は、一切の事物を分析し、これらは因縁によってしばらくの間、存在するまでのことであって、因縁が尽きれば滅して空になるとする「析空観」です。この空理観に基づき、声聞は四諦、縁覚は十二因縁、菩薩は六度を修行して、見思惑という煩悩を断尽し、再び三界六道の苦界に生を受けることがな くなるということを蔵教の悟り(涅槃)としています。見思惑とは、道理に迷う煩悩(見惑)と、感情的な煩悩(思惑)のことをいいます。
 これらの煩悩は、肉体があるかぎり心を惑わすものですから、灰身滅智(身を灰にし心智を滅失すること)によって、はじめて真の涅槃に入ることができるとされています。この悟りを「無余涅槃」といいます。
 このような蔵教の空理観は、現実を否定し、すべての実体をただ空の一辺のみと見るところから「但空の理」といわれ、また偏った真理であることから「偏真の空理」ともいわれます。
通 教(つうきょう)
 通教は、前の蔵教では傍機であった菩薩を正機とし、声聞・縁覚を傍機として説いた権大乗の教え です。
 通教の通とは、ここで説く「当体即空」 の空理が前の蔵教の空理につうじ、また、後の別教と円教にもつうじるという意味です。
 通教では、三界六道の苦果から脱れるための観法として、因縁によって生じた諸法の当体はもともと存在せず、それ自体が空(当体即空)であるという「体空観」を説いています。
 この通教において三乗の人々は、それぞれに無生の四諦・十二因縁・六度を修行しましたが、その悟りの内容は機根の利鈍の差により、同一の結果と はなりませんでした。すなわち鈍根の菩薩や声聞・縁覚の二乗は、「当体即空」を聞いて蔵教と同じく「但空」を悟るに止まり、利根の菩薩は、この当体におの ずから有の存在を含み、ただ単なる空ではないという中道の妙理が含まれている「不但空の理」を悟るというものでした。
 したがって、この通教の説かれた主な目的は、利根の菩薩に不但空の理を悟らせ、次の別教や円教の修行に進ませるところにありました。
別 教(べっきょう)
 別教は、その内容が前の蔵・通二教や後の円教とも隔別し、菩薩のみに説かれた教えなので別教といいます。
 ここでは、前の二教が空理のみを説くのに対し、広く空・仮・中の三諦を明かしています。
 「空諦」とは、あらゆる存在には固定した実体がないことをいい、「仮諦」とは、あらゆる存在は因縁によって、仮りにその姿が現れていることをい い、「中諦」とは、あらゆる存在は空でもなく仮でもなく、しかも空であり仮でもあるという、空・仮の二辺を超越したところをいい、ここに不偏の真実がある とします。
 しかし、別教で説かれる空・仮・中の三諦は、互いに融合することなく、それぞれが隔たっていることから「隔歴の三諦」といわれ、一切の事物につ いて差別のみが説かれて、融和が説かれていないという欠陥があります。また別教で明かされる中道諦も、空・仮二諦を離れた単なる中道であるため、これを 「但中の理」といいます。
 さらにこの別教には、大乗の菩薩に対して、仏道修行を妨げる煩悩として見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑が明かされ、この三惑を断ずるために、十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚と次第して進む五十二位の修行の段階が説かれています。
 また別教では、蔵・通二教で説かれた三界六道のほかに、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)を含む十界すべての因果を明かしていますが、それぞれの境界は隔別しており、十界互具する義は説かれていません。このように三諦円融の義もなく、十界の融通・互具の義もない別教は、いまだ完全な教えではないのです。
円 教(えんきょう)
 円教とは、宇宙法界の一切が円満に融合し、不可思議な当体であることを明かした教えです。
円教では、空・化・中の三諦は孤立することなく、一諦の中にそれぞれ三諦をそなえて、一諦即三諦・三諦即一諦の関係が説かれています。これを「円融の三諦」といいます。この円融の三諦は、法界に存在する個体も、法界全体もことごとく中道不思議の妙体であるとするもので、ここで説かれる中道は別教の 「但中」に対し、「不但中」といいます。
 また、円教においては十界互具が説かれ、九界の生命も仏界に具足し、仏界の生命もまた衆生に具有することが明かされています。
 これら三諦の円融や十界互具を説き明かした円教は完全な教えであり、仏の究極の悟りなのです。
 この三諦円融・十界互具の原理を基として、法華経には一念三千という法門が明かされています。この法門を信ずることによって、我が身と宇宙法界 が円融相即し、これまで断滅すべきものとされていた煩悩・五欲も断ずる必要はなく、凡夫の身をそのまま仏と開く即身成仏の義を明かすものです。
 なお、円教の理は華厳時・方等時・般若時にも一応説かれていますが、蔵・通・別の方便教と混合しているため、純粋な教えではありません。このた めそれらは「爾前の円」といわれています。これに対して、法華経は純粋に円融円満の教義が明かされた教えであり、これを「純円独妙」といいます。


化儀の四教(けぎのしきょう)
 化儀の四教とは、釈尊一代五十年にわたる説法の形式・方法を、天台大師が頓教・漸教・秘密教・不定教の四つに分類したものです。

頓 教(とんきょう)
 頓教の頓とは「ただちに」の意であり、仏が衆生の機根にかかわらず、大乗の教法をすみやかに説 かれたことをいいます。華厳時ではこの説法形式が用いられ、その内容は、円教と別教を兼ねて説かれています。
漸 教(ぜんきょう)
 漸教の漸とは「漸(ようや)く」と読み、「次第に進む」の意で、仏が衆生の機根に応じて浅い教えから深い教えへと次第に誘引することをいいます。この説法形式は、阿含時・方等時・般若時に該当します。
 この漸教は、阿含時ではただ蔵教(小乗)のみが説かれ、方等時では小乗(蔵教)と大乗(通教・別教・円教)とを対比して説かれ、般若時では、円教に通・別の二教を帯びて説かれました。
秘 密 教(ひみつきょう)
 秘密教は秘密不定教ともいい、仏の説法を聴く衆生が、互いにその存在を知らず(秘密)、同じ教えを聴きながらもそれぞれ機根に応じて聞き方を異 にし(同聴異聞)、その得益が一定しない(不定)という化導法をいいます。この説法の方法は華厳時の一部や、阿含時・方等時・般若時にあたります。
不 定 教(ふじょうきょう)
 不定教は顕露不定教ともいい仏の説法を聴く衆生が、互いにその存在を知り(顕露)ながらも秘密教と同じ同聴異聞であったため、衆生の得益が不定であるという化導法をいいます。この説法方法は前の秘密教と同じく、華厳時の一部や阿含時・方等時・般若時にあたります。

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 このように仏がさまざまな手段・方法をもって説法されたのは、衆生の機根を徐々に調えて真実無上の法華経に導き衆生の得脱をはかるためでした。法華経は、仏の悟りをそのままに説かれた純粋な円教であり、また化法・化儀の八教を超越しているところから「超八醍醐」といわれます。

日蓮正宗機関誌 大白法 平成26年10月16日号より











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