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 末 法 の 御 本 仏 ・ 日 蓮 大 聖 人 の ご 生 涯

  ※若年層でも読みやすいように簡略化してあります 

 【17】 二月騒動(にがつそうどう)御赦免(ごしゃめん)鎌倉(かまくら)


 「塚原問答(つかはらもんどう)」のとき領主(りょうしゅ)本間重連(ほんましげつら)に「鎌倉(かまくら)(あらそ)いが()こるから()をつけなさい」と大聖人様(だいしょうにんさま)予言(よげん)をしていました。その言葉(ことば)どおり執権(しっけん)北条時宗(ほうじょうときむね)(あに)北条時輔(ほうじょうときすけ)(おとうと)権力(けんりょく)(ねた)んで転覆(てんぷく)をはかりました。それを()った時宗(ときむね)(さき)()(まわ)して成敗(せいばい)してしまったのです。これを(ぞく)()う「二月騒動(にがつそうどう)」と()い、一族(いちぞく)による同士討(どうしう)ちのもっとも(おお)きな事件(じけん)として、のちのちまで()()げられていくのでした。
 ことごとく大聖人様(だいしょうにんさま)予言(よげん)的中(てきちゅう)するので(こわ)くなった鎌倉幕府(かまくらばくふ)要人(ようじん)たちは「(たつ)(くち)法難(ほうなん)」で()らえた弟子(でし)たちを釈放(しゃくほう)し、大聖人様(だいしょうにんさま)極寒(ごっかん)佐渡(さど)二年半(にねんはん)歳月(さいげつ)()ごしましたが、(つい)幕府(ばくふ)無罪放免(むざいほうめん)にしたのでした。
 大聖人様五十三歳(だいしょうにんさまごじゅうさんさい)(とき)でした。

 【18】第三回目(だいさんかいめ)国家諌暁(こっかかんぎょう)


 鎌倉(かまくら)にもどった大聖人様(だいしょうにんさま)幕府(ばくふ)評定所(ひょうじょうしょ)() ばれ 、平左衛門尉頼綱 (へいのさえもんのじょうよりつな)にあいました。(たつ)(くち)(とき)とは(ちが)い、おだやかに蒙古(もうこ)襲来(しゅうらい)がいつ()こるのか」そしてこの問題(もんだい)解決(かいけつ)するために「他宗(たしゅう)僧侶(そうりょ)たちと一緒(いっしょ)祈祷(きとう) をし 幕府(ばくふ)(ちから)() すならばお(てら)建立(こんりゅう) しよう」と() いました。 大聖人様(だいしょうにんさま) は「 蒙古(もうこ)( ) めを解決(かいけつ)したいのなら法華経(ほけきょう)信仰(しんこう)他宗(たしゅう)(おし)えを()てよ!」と (きび)しく三度目(さんどめ)の「国家諌暁(こっかかんぎょう)」をしました。
 しかし幕府(ばくふ)他宗(たしゅう)僧侶(そうりょ)たちとのなれあいを() れず、誰一人(だれひとり)として忠告(ちゅうこく)()()れる(もの)はいませんでした。そこで大聖人様(だいしょうにんさま)は「三度諫(さんどいさ)めて(くに)() る」の故事(こじ)をひいて 身延山(みのぶさん)(うつ) 、弟子 (でし)教育(きょういく)専念(せんねん)することを()めました。 そして蒙古 (もうこ)兵隊(へいたい)壱岐対馬(いきつしま)占領(せんりょう) しほとんどの (しま)(ひと)たちが(ころ)されました。これを「文永(ぶんえい)(えき)」と()います。

 

 【19】 日目上人(にちもくしょうにん)常随給仕(じょうずいきゅうじ)




 日蓮大聖人様(だいしょうにんさま)身延(みのぶ)()弟子(でし)たちの教育(きょういく)()(くだ) かれていました。 (ひと)つに「(しん)じる(こころ)」、(ふた)つに「信心(しんじん)修行(しゅぎょう)」、(みっ)つに「教学(きょうがく)(まな)ぶこと」が信心(しんじん)(まな)ぶ上(うえ)一番大切(いちばんたいせつ)姿勢(しせい)だと(おし)えました。
  大聖人様(だいしょうにんさま)五十三歳(ごじゅうさんさい)(とき)日興上人(にっこうしょうにん)によって日目上人(にちもくしょうにん)得度( とくど)しました。そのあと身延(みのぶ)(のぼ) 、雪深 (ゆきぶか)山奥(やまおく)なので食料(しょくりょう)調達(ちょうたつ)()かりを(とも)(あぶら)(かみ)などを()() れ たり、 毎日何度(まいにちなんど)身延(みのぶ)谷間(たにま)(さわ)まで()りて()って(みず)() みま した。 水桶(みずおけ)(あたま)にのせて(はこ)(つづ)け、日目上人(にちもくしょうにん)(あたま)(たい)らになってしまうほど大変(たいへん)仕事(しごと)だったのです。しかし何一(なにひと)文句(もんく)()わず、師匠(ししょう) にお 給仕(きゅうじ)をしながら(きび)しい信心修行(しんじんしゅぎょう)にも教学(きょうがく)勉強(べんきょう)にも一生懸命頑張(いっしょうけんめいがんば)っていました。そんなけなげな姿(すがた)大聖人様(だいしょうにんさま)(こころ)から(よろこ)んでいました。

 【20】熱原法難(あつはらほうなん)三名(さんめい)処刑(しょけい)される



 大聖人様(だいしょうにんさま)身延(みのぶ)入山(にゅうざん)された(あき)のころから、お弟子(でし) や日興上人 (にっこうしょうにん)富士方面(ふじほうめん)精力的(せいりょくてき)(ただ)しい(ほう)()いていました。そして熱原(あつはら)一帯(いったい)でも農民(のうみん)たちが信心(しんじん)(はじ)めていました。それに(はら)()てた竜泉寺 ( りゅうせんじ)院主(いんしゅ)行智(ぎょうち)平左衛門尉頼綱(へいのさえもんのじょうよりつな)(ふか)(えん)があり こころよく (おも) っていませんでした。 自分(じぶん)領地内(りょうちない)信者(しんじゃ)()やしていくことに、(いか)りを( おさ)きれず、大聖人様(だいしょうにんさま)弟子(でし)日秀(にっしゅう)(はたけ)稲刈(いねか)りに手伝(てつだ)いに()ていた農民(のうみん)たちを突然無実(とつぜんむじつ)(つみ)(とら)らえたのです。それは行智(ぎょうち)策略(さくりゃく)大聖人様(だいしょうにんさま)弟子(でし)誘惑(ゆうわく)して(うそ)(うった)えを させていたのでした。
 行智(ぎょうち)熱原 (あつはら)神四郎(じんしろう)弥五郎(やごろう)弥六郎(やろくろう)兄弟(きょうだい)(おど) し、 鎌倉(かまくら)(やかた)連行(れんこう) しました。そして (こめ)泥棒(どろぼう)したと(うそ)(うった)えを弥籐次(やとうじ)使(つか)っておこさせたのです。しかし()調(しら)べとは()ばかりで「日蓮房 (にちれんぼう)信心(しんじん)をやめろ!やめればみんなも(たす)けてやる」と()(はな)って(おど)したのです。だが三人(さんにん)は「大聖人様(だいしょうにんさま)信心(しんじん)はやめない!」と()(はな)ち、お題目(だいもく)( とな) えつづけ 、平左衛門尉 (へいのさえもんのじょう)神四郎(じんしろう)弥五郎(やごろう)弥六郎(やろくろう)(くび)次々(つぎつぎ)とはねてしまいました。しかしそれでもお題目(だいもく)(とな) える 農民(のうみん)たちの姿(すがた)(おそ)れをなして(ほか)(もの)たちを釈放(しゃくほう)しました。
  三人(さんにん)斬首(ざんしゅ)されたことを() いた大聖人様(だいしょうにんさま)弟子(でし)たちを(あつ)め「熱原(あつはら)三烈士(さんれつし)」の供養(くよう)をされました。そして「三烈士(さんれつし)」が無残(むざん)(ころ)された()から十四年(じゅうよねん)()謀反(むほん)平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)一族(いちぞく)すべてが断罪(だんざい)され(ほろ)びました。
















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