末 法 の 御 本 仏 ・ 日 蓮 大 聖 人 の ご 生 涯
※若年層でも読みやすいように簡略化してあります【21】本門戒壇の大御本尊様を顕す | ||||
| 日蓮大聖人様は熱原の農民たちのように庶民の中から純真に信仰を守りぬこうとの息吹を感じ、いよいよ本門の戒壇御本尊を顕すことを決意
され「
出世
の
本懐
」をなしとげられました。弘安2年10月12日のことでした。 そして「三烈士」のように命をかけて法を守り続けることを願い、願主を民衆の中から大聖人様の心の中の人の名前にしたいと「弥四郎国重」とあらわしました。そして熱原の農民たちのように死心弘法の信心を死ぬまでつらぬいて欲しいと願いを込めて後世に残されました。 そして大御本尊様が顕されてから二年目に入り再び蒙古の大軍が攻めてきました。これを「弘安の役」と云います。 |
【22】御付属・池上兄弟の館で御入滅 | ||||
| すべての化導と相承を日興上人にゆずられた大聖人様は、自らの死期を悟られ釈迦の立像を退け、御本尊様をお掛けし読経・唱題を弟子たちとされました。 そして弘安五年十月十三日午前八時ころ弟子たちの題目に送られながら、六十一歳の生涯をとじられ、御遷化されました。このとき大地が震動し桜の花 がたくさん 咲 きほこり、 大聖人様の魂が大御本尊にかえっていくことの慶びと、末法万年の人々を救われるお祝 いのしるしがあらわれました。 しかし、すべての 弟子たちが落胆していました。それでも日興上人の導師のもと、厳粛に御葬儀をとりおこないました。そして初七日の法要をすませてから日興上人たちは御灰骨を胸に抱き、悲しみの旅路を身延に向かって進まれました。 |
【23】日興上人が本門弘通の大導師に就任 | ||||
| 大聖人様が亡くなられてから久遠寺の別当となられた日興上人は悲しみに暮 れる 暇もなく大聖人様の御遺言の通り広宣流布に向かい一門の発展のためにご苦心 されました。 しかし、 大聖人様の御遺言で本弟子 の六老僧 に、お墓を交代で守るように言われましたが、日興上人以外の五人の老僧は 一向に身延の山には登っても来ませんでした。 しかし日興上人とお弟子たちだけで大聖人様のお墓をお守りしていました。 五人の老僧たちは大聖人様のお手紙が、かな文字で書いてあることから内心では軽蔑 し 、深 い教義にも気が付かず「天台沙門」と名乗りを上げ、大聖人様の弟子とは名ばかりでした。そして大聖人様から送られたお手紙や御本尊を捨てたり焼いたりしていることに日興上人はとても悲しまれました。 「未来の人たちのために大聖人様のさまざまな時の御指導や御指南を残さなくてはいけない」と全国の弟子たちや信徒のもとに散らばっているお手紙を弟子信徒たちの協力によって集めることを決意されました。そしてその重宝が現在も総本山大石寺にあり、代々の御法主上人猊下様に連綿と受け継がれ日興上人は大聖人様のお手紙を「御書」として定められました。 |
【24】日興上人、 身延離山 | ||||
| 日蓮大聖人様の三回忌の法要がありましたが、あいかわらず五老僧たちは来ませんでした。しかし大聖人様の御遺志は日興上人に継がれ心ある信徒の方々と日興上人のお弟子たちが集い、日興上人の大導師のもと厳粛におこなわれました。 その後幾度とない日興上人の説得により、ようやく民部・日向が身延山に登って来ました。それを喜ばれた日興上人は学頭職をまかせました。しかし厳格な日興上人に対 して 反感を抱く日向は地頭・波木井実長 と毎晩酒を酌み交わしうっぷんを晴らすように贅沢三昧を始めました。そして大聖人様の教えに背き、実長と日向が日興上人の注意も指導も聞かず謗法の限りをつくすようになってしまいました。 実長 は地頭の立場を利用して日興上人にも謗法を強要するようになってしまいました。大聖人様の思い出が詰まった身延でしたが「謗法の山には住めない」と言って大聖人様の残された大御本尊様と重宝を背負って身延を離れる決心をしました。 そして大聖人様が亡くなられてから八年の歳月を過ごした思い出の地身延を捨てて大石が原の地頭南条時光殿をたよって新たな出発を決意されたのでした。 |
【25】日興上人、 大石寺創建 | ||||
| 日興上人 は、大聖人様 が話されていた「霊山浄土のような風貌の地に戒壇を建てるように」との遺言を思い起こし、雄大な富士の裾野に広がる大石が原に立ったとき、この地こそ大聖人様が話された風貌に似ていると大確信を持ちました。地頭の南条時光から土地や建築材料の寄進を受けて次の時代をになう聖地と定めて牙城を築きはじめました。 それから一年後の十月十三日、大石寺の大坊が無事に完成したのです。 大御本尊様の御安置も済ませて、日興上人が日目上人に次の貫首として大石寺建立の日を選んで、「血脈相承」を御内付されました。 |