末 法 の 御 本 仏 ・ 日 蓮 大 聖 人 の ご 生 涯
※若年層でも読みやすいように簡略化してあります【13】 松葉ヶ谷の襲撃 ・召還 | ||||
| 良観 たち や権力者の女房たちの嘆願により、先の執権、時頼・長時たちの死に対して大聖人が『無間地獄 に堕 ちたとバカにしている』と 言 いふらし、 平左衛門尉頼綱が大聖人様を呼びつけ尋問をしました。 大聖人様は『法華経に背けば無間地獄 は免れないと生前から申している』と答 えました。それ を聞 き『 先の執権に対して地獄に堕ちたなど、とんでもない』と怒り 理不尽 にも無実の罪をでっちあげました。 そしてその夜、数百人の武装した兵士をしたがえて松葉ヶ谷の草庵を襲撃 したのです。そのとき 小輔房が大聖人様のふところから巻物を取り出し、頭 を叩きました。不思議なことにこの経巻には末法にこの法門を広める人は必ず三類の強敵が競い起こり『刀杖の難にあう』という『観持品 』 第十三が書いてありました。そして兵士たちは証文を踏み付けては暴れていました。大聖人様は『平左衛門尉頼綱が魔物に狂ったのをみよ・・・ただいま日本の柱を倒した』と大音声をもって放った声に驚き、兵士たちは我 にかえりました。 |
【14】竜の口の法難 | ||||
| 大聖人様を、ひとまず評定所に連れ出し何の取り調べも無 いまま 佐渡への流罪を決 めましたが、それは 表向きであり竜の口 で処刑 することが 決まっていたのです。 処刑場に行く途中、八幡宮の前に立ち止まり大聖人様は『八幡 はまことの神 か! 日本一の法華経の行者が 過ち無く首をはねられようとしている。 釈尊との約束を忘れたか!』と 大声で呼びかけられ叱咤されたのでした。 そして処刑場に進む途中、事件 の 知らせを聞き駆けつけた四条金吾は大聖人様と一緒に死のうと覚悟を決めていました。 しかし大聖人様は馬の手綱に捕まって泣きじゃくる金吾をみて『法華経の為に命を捨てることを歓べ。今こそ約束をはたすときだ』と大確信を教え、四条金吾の純真な信心を心強く愛おしくも思 っていました。 そして 文永 八年(1271)十月十二日、鎌倉の江ノ島にある竜の口の処刑場についたのは夜半も過ぎているころでした。日蓮大聖人様は首の座に悠然と座られ静かにお題目を唱えていました。 兵士たちは大聖人様の周りを厳しい顔でいかくしながら囲んでいました。その中の一人の兵士が刀を抜き、大聖人様の首を目がけてはねようと刀を振りかざした瞬間、江ノ島の彼方から突然月のような光り物が、あたり一面を照らし音を立てながら飛んできました。 大聖人様の首を切り離そうとした太刀とりの兵士は、強烈な光に目がくらみ恐怖のあまり退き、兵士たちは恐れおののきながら刀を捨てて逃げまどってしまいました。そして大聖人様が逃げまどう兵士たちに向かって『誰か早く首を刎ねよ、夜が明けると見苦しいぞ・・・!』と大声で叫びましたが何事が起こったのか解らない兵士たちは、あまりの恐怖と突然の出来事に動転して、誰ひとりよって来る者はありませんでした。 |
【15】佐渡流罪・極寒の塚原三枚堂での暮らし・阿仏房と千日尼との出会い | ||||
| 大聖人様を殺せなかった平左衛門尉頼綱たちは仕方がなく、いったん依智にある本間六郎左衛門の館に送 りました。そこで 大聖人様は任務に当たっていた兵士たちの労を気遣い、お酒を取り寄せ兵士たちに振 るまいました。『 日蓮御房 を殺 そうとした 私たちに、ここまでの心遣 いをしてくれる』と、 心をうたれて何人もの兵士たちが 、 念仏を捨てて法華経に帰依して行きました。 しかし幕府 は大聖人様を、食べる物もなく極寒の厳しい寒さの中で二度と再び生きて戻ることができないと云われていた佐渡の島に犯罪人として流罪することを決めてしまったのです。 佐渡 では、 死んだ人たちを弔うために建てられた一間四方の荒れ果てた三枚堂を大聖人様の住 まいとしてあたえました。 壁ははげ落ち、雨や雪が吹き込み風が舞い寒さが身を切 り、 食 べ 物も無 く、 日興上人だけを残されあとの弟子たちは本国へ帰 されました。 苦しい生活 でも 日興上人の我が身を捨てたお給仕でおおくの大切な御書を著してゆかれました。 佐渡 に 熱心な念仏宗の信者 、阿仏房 がいました。『 鎌倉幕府にたてつき、念仏 を誹謗 する大罪人だ』としか知らされていない人たちは、いつか殺してしまおうと狙 いました。しかし 大聖人様のお姿をみた阿仏房は罪人には思えず『どうして念仏が無間地獄に落 ちるのか』と 質問 をし、それを 理路整然 と答 える大聖人様の慈悲の深さに心を動かされ夫婦そろって大聖人様のお弟子になりました。そして食べ物の調達から手紙を書くための紙や筆なども貧しい生活の中、夫婦そろって一心にご供養をされました。 |
【16】塚原問答 | ||||
| 大聖人樣を守ろうとする人たちも増えて来た一方、律宗の僧持斉を始め念仏僧の唯阿弥陀仏印性房らは数百人の人たちを集めて、領主で守護職の本間重連に「大聖人を襲撃して殺すように」と迫りました。しかし鎌倉幕府の通達で、公に危害を加えることはできず思案の結果「法門による決着」をうながしました。そして一月十六日塚原に他宗の僧侶や信者たちが集まり「塚原問答」がはじまりました。だがあっけない念仏僧たちの敗退で、幕を閉じる結果になりました。そして多くの信徒たちが大聖人様の説法に敬服して、入信する切っ掛けとなってしまったのです。その後「塚原問答」に参加した最蓮房日浄も大聖人様のお弟子に加わりました。 |